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最近、考えていること

―中尾
澁澤さんは、最近何について考えていますか?

―澁澤
改めてそう言われると、何だろうと思いますが、仕事はどんどん進めなければいけないから、自分のやりたいことや思うことをどう実現していくか、どうしたら相手に伝わるかとか、どのルートでいったらば実現性があるかということは考えているのでしょうけれど、それは別に人間として考えているということではないですね。そういうことを改めて考えると、うちの事務所に野良猫がよくくるのです。いろんな野良猫が来るのですが、私の顔を見て、シャーッという猫と、ニャーという猫がいるんですよ。このシャーッとニャーの違いは何だろうと考えますね。いろいろ調べてみると、どうも猫同士はニャーといってないのですよ。あれは猫の人間に対する言葉なのですね。餌をとられそうになると、野良猫同士はシャーなんですよ。道で野良猫同士がすれ違う時もシャーというときもあるし、もっとひどいのは、毛を逆立ててシャーッというやつもいます。

―中尾
メスの取り合いですかね。

―澁澤
餌とかメスの取り合いなのでしょうね。
そうすると、シャーの方が、彼らが身につけた言葉なんでしょうけど。

―中尾
シャーは、言葉というか、本能の音でしょうね。

―澁澤
そうですね。
だから考えてはいませんね。
そういうことを考えると、ニャーは人間に寄り添って、そう言えば人間は喜ぶんだろうなと思って、彼らなりに人間語としてニャーと言っているような気がするのです。

―中尾
野良猫でも人間との付き合いのある猫はニャーを知っているということですね。

―澁澤
そうですね。考えるようになるとミャーと言って、考える前はシャーと言ってるのかも。

―中尾
考え始めたきっかけは人間ということですか?

―澁澤
人間から何かの成功体験でしょうね。餌をもらったとか、撫でられたとか。

―中尾
野良猫も撫でられるのが好きなんですね?

―澁澤
猫は、基本的に体がどこか触れていることによって安心をするといいますね。体全体を使ったコミュニケーション手段。身体性といわれるような。だけど、それで考えているわけではなくて、本能のなせるままの部分。

―中尾
人間と出会うことによって、動物も考えるということですね?
それまでは本能だけで生きていたものが、考えることを覚えるということ?

―澁澤
私たちも赤ん坊のころに「マンマ」というと、「わー、この子しゃべった」といって親たちは喜んで、おっぱいをもらったりするわけです。
そういう形で言葉ってものを段々習得していって、その次に使う言葉を、頭でいろいろ考えることが始まるのですね。本能は直接考えることではないですけど、言葉で考える。それが考えることなんだと思って、たぶん育ってきたのだと思います。

―中尾
澁澤さん、子供の頃に「考えた。これは考えたな」と思ったことってありますね?

―澁澤
考えたのは、たぶん、毎年夏休みの終わりが見えたときに、この窮地をどう乗り越えるか、手も付けていないような宿題をどうするかと。

―中尾
今の澁澤さんからは考えられないですね(笑)

―澁澤
母親はそういう人ではなかったので、「ちゃんとやれ!ちゃんとやれ!」と言われましたね。
絵日記だって書いてないし、工作も作っていないし、お父さん、お母さん、おばあちゃんも含めて、一家総動員でそれに対処してくれて、私は横で、もう夏休みはあと二日しかないんだとか、あと一日しか僕の夏はないんだと思ってめそめそ泣いていた記憶はあります。

―中尾
それは、考えてくれたのは、お父さんやお母さんであって、澁澤さん自身が考えたわけではないですね(笑)。一人で考えたのはいつですか?

―澁澤
本当に考えたのは、親父がある日突然死んだ時でしたね。

―中尾
なるほど、それは20代の後半ですね。

―澁澤
20代の後半になって。それまでは父が当たり前のようにいる世界で、どう自分なりに生きていくかを考えていれば良かったのですが、頭が亡くなった瞬間に、自分が、家族のことも自分のことも全部考えなければいけなくなったのですよ。
びっくりしたのを覚えています。怖かったし。

―中尾伊早子
そうですね。それまでは、考えなくてよい人生だったんですよね。

―澁澤
学校の先生が宿題を与えてくれましたから、あるいはテストが出てきて、それをやって良い点とれば親も先生もほめてくれた。それで、良い大学へ入り、良い就職先を見つけていくと、周りはそれなりに祝福をしてくれる。ただそれは、自分が宇宙の中で見つけたものではなくて、絶えず目の前に出てきたもの。本当に考えるということは、自分が本当に孤独になるということですね。

―中尾
考えるには、きっかけが必要だったということですね?

―澁澤
きっかけとそれから考える癖というか、それは何にでも良いのでしょうけど、考えるということが身についていないと、いきなりはなかなか考えられないですね。

―中尾伊早子
あっ…澁澤さんは、お友達が猫ちゃんだったり、草花だったりとおっしゃっていらしたじゃないですか。人相手ですよね。考えるというのは。

―澁澤
そうですね。おっしゃる通り、私は花相手で、いったいこの花はいつ咲くだろうかとか…

―中尾
ということは、お父様が、人間と向き合うことだったのですね。
私の場合は、子供の頃からずーっと、実家で珠算塾やらピアノ教室、お琴・三味線・お習字のお教室をやっていたので、家に出入りする人の数がものすごく多かったので、常に人を見ていたのです。だから人への興味と、その中で考えることが多かったのですね。

―澁澤
中尾さんは逆に、ずっと人との間で無意識に考えてきた、それがもう少し広い社会が見えてきたときに、「考える」ということが変わってくるわけですよね。

―中尾
そうですね。澁澤さんとラジオを始めた頃にお話したように、旅に出たことによっていろんな人に会って、その土地で暮らしている人たちに自分と違う生活を見ることでそれまでとは違う視点で考え始めるわけですよね。自分と違うものに対して、若いころは拒否、受け入れられなくて、自分は自分でしかないと思っていたものが、そうでもないかな。同じ人間で、同じ日本で、同じ時代を生きていることに視野が広がっていくのです。その同じというところに、それまでとは全く違う価値観が生まれてきて、考え方まで変わってくる。その人たちに思いも馳せるということができるようになってきたのが40代でした。

―澁澤
中尾さんが会われた職人さんだとか、お百姓さんは、中尾さんがそれまで歩いてこられた都会でのその社会とはずいぶん違う社会、自分でどうするよりも季節がどんどん変わっていくから、今やらなきゃいけないこともはっきりしているし、人に力を貸してもらうことも必要だし…という世界ですね。

―中尾伊早子
先に自分の暮らしがあって、そこから人の付き合いが生まれてくるものと、都会は自分の夢を実現させるためにどの人を使ってどうやってうまく生きていくかを考えるので真逆なんですよ。

―澁澤
そうすると、都会でどうやって生きていくかということは頭の中で、言葉で考えるのですが、
中尾さんが会われたお百姓さんや職人さんは、さっきの言葉でいうと、身体性で考える。それは、逆に自分の直感だとか、自然に対する感性だとか、第五感、第六感までフルに自分の才能を発揮しながら、その中で絶えず考え、感じていく世界。今は「考える」というと、みんな言葉で、ニャーで考えるのが考えることだと思っているのですが、世の中の「考える」ということの中にはシャーで考える、要するに身体性で考えることと言葉で考えること、そのバランスをどう作っていくかということが自分の人生をどう作っていくかということと同じなのかもしれませんね。

―中尾伊早子
そうですね。猫ちゃんも人間も同じかもしれませんね。

―澁澤
そういう意味ではニャーという猫は馬鹿にはできないですよね。

―中尾
馬鹿になんてできない。すごく賢いですよ。

―澁澤
だけどね、今度はニャーしか言わなくなるんですよ。
それで、自分を人間だと思いはじめるのですよ。

―中尾
人が動物も変えちゃうんですよ。きっと。

―澁澤
それくらい人のコミュニティというか、人というのは、強烈な力を持ってしまったのですね。

―中尾
それもそうだし、それはもしかしたら愛情かもしれませんね。
次は、愛についてお話ししましょう。

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