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「スガシカオ」夜空に瞬く星のように。

大寒や判官贔屓も死語となり

昨日、「消え去りし判官贔屓王将戦」と書いたのは、駄作も駄作。超駄作だった…。(泣)

藤井王将が勝ちを収めた第一局2日目の午後は、ネットでのライブ配信を見ていた。
何の動きもないのに、延々と画面に見入ってしまう。目が離せない。不思議なものだ。
ずっと見てしまうから、画面の横にでてくる「ギャラリー」のつぶやきをついつい読んでしまう。
終盤は、
「もう勝負あったね。」
「羽生さん、はやく諦めて投了すればいいのに。」
「AIの評価値、4%。ワロタ。」
「もう今の藤井王将を止められる人はこの地球上にはいないね。」
「少なくとも、今の羽生さんに無理なのは明らか。」
「羽生さんを応援してる人も中にはいるみたいけど、残念ながら藤井王将の4連勝で終わるでしょうね。」
的なコメントばかりが延々と続く…。

いや、いいんだけどさ、「日本っていつからこんなになったんだろう?」って思ってさ。
昔は「判官贔屓」というか、「弱いもの」を応援するような文化(?)があったように思うし、むしろ「強いもの」を応援するのは(「強いもの」に「巻かれる」のは)恥ずかしいことのように感じていたように思うんだけど、そういう風潮ってどこに行っちゃったんだろう?

それと、年配者を敬う気持ちとかも。
羽生さんのここまでの実績や将棋界への貢献だとか、というか、彼は棋界のみならず、それこそ人類の進化、人工知能を含めた科学技術の進歩、そんなことを見据えて活動してきたんだよ。自身の勝敗よりずっと先の世界を見据えてやってきたんだよ。そんなことに対するリスペクトとかいうものは無いのだろうか…?

ってな気持ちを詠みたかったのだけど、でも考えてみたら、そもそも羽生さんを応援するのが判官贔屓じゃないし、それ(=私)こそ失礼な話じゃないかと思って…。(>_<)
しかも、これは川柳だよね?(王将戦は冬の季語!?)

ってことで、直してみました。
1行目の一句で応募します。(スタッフの皆さん、そして羽生さん(心から応援しているのに)、ゴメンナサイ。(涙)

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今日は先日の残業の振り替えで2時間半の早帰り。神戸(「部屋」とは逆方向)に映画(ナンニ・モレッティ)を見に行こうかと思ったのだけれど、寒いし、遅くなりそうだし、夜の雪も怖いし、止めた。

帰り道のカーラジオ、今日スタートの通常国会。ちょうど某首相が施政方針演説とやらをしていたのだが、「世界唯一の被爆国として…」なぁんて聞いても、何だかもの寂しくなってしまう。とりあえず、核兵器禁止条約に批准してから言いなよ。

でも、人々は、「野党は…」とか、彼ら(=野党議員)に対して「売国奴!」とか、「国に帰れ!」とか言う。結局さっき書いた王将戦のコメントと一緒よね。

日本だけでなく、アメリカ始め各国でも、例えば銃犯罪などがあると即刻犯人が射殺される事例が続く。いやいや、逮捕して事情を訊くのが本来でしょ?

「諦め」なんですかね? 悲しいことです。その「悲しみ」でなぜかマウントを取ろうとするのが大いに間違ったことだと思うんです。

どうすればよいのでしょうか……?

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写真、「鬱の人は読んじゃダメ!」と前書きで禁じられている小池龍之介さんの『「自分」を浄化する座禅入門』と、こないだ職場で百人一首のCDを探しているときに(それは見つけられなかったけれど、代わりに)見つけたスガシカオさんのCD。

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どこに「答え」が、あるいは、少なくとも「ヒント」が、あるんだろう?