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正しいことに意味なんてない

世の中には、正しいと言われていることがたくさん存在する。「お金はあるに越したことがない」「結婚はできるならした方がいい」「人には優しくした方がいい」などだ。

例えば私は、最近二つのことについて考えた。一つは「過去を悔やむのではなく、未来をポジティブに考え行動することが大切だ」ということ、もう一つは「誰かの意見を批判することで自分の相対的な立場表明をするのではなく、自分が自分の中で持っている絶対的な価値観を築くことが大切だ」ということだ。

私はこれを正しいことだと思うし、だからそれらをこれからも意識して生きていきたいと思う。しかし、それについて深く掘り下げて文章にしたいとはあまり思わない。なぜなら、正しいことを言うだけでは何の意味もないからだ。

意味があることというのはどんなことだろうか。私にとってそれは、正しいと思われていることなのに、それでもそれをできなかったりやりたいと思えないとき、その理由を分析したり、それができない前提でどう生きるかを考えたりすることだ。

例えば、「コミュニケーション能力はあった方がいい」「若いうちはリスクをとって果敢に挑戦した方がいい」というのも、世の中で正しいとされていることだ。しかし私にはそれができない。

コミュニケーション能力は元々無く、それを身につける方法もわからない。リスクを取るのは怖い。しかし、だからこそそれができないことを前提に、それでも上手く生きていく方法を考え、提示することができる。

その結果私は、『会話の苦手な僕が、メモの魔力を使って乗り越えた話』や『かすり傷以外、死ぬ -安定志向の生存戦略』を書くことができた。

この二つは、私が”できない”ことを私が”できる”方法でどうやって乗り越えていくかについて書いたものだ。これらには私が上手く生きていくための方法論と、そして私だからこそ書けたエピソードが詰まっている。このような「”できない”ことを”できる”方法でどう乗り越えるか」というプロセスに、つまり物語にこそ意味があると思っているし、そのような文章を書きたいと思う。

そうではない単に正しいことを論理的に書いたところで、それはリマインダーとしての役割は果たせるのかもしれないが、それ以上にはなり得ない。

最近、「書きたい」と思うことが減った。それは私が、様々な困難を自分なりの方法で乗り越えたことで、立ちはだかる壁自体が減ったからなのかもしれない。あるいは壁を超えるのではなく、壁から逃げることを覚えてしまったからなのかもしれない。

それでも私には、具体的にまだ乗り越えるべき壁がいくつか残っている。一つは、サウナについてだ。私は昨年10月頃からサウナにハマり、定期的に通っている。それは表面上は単にサウナが気持ちいいからであるが、私はそれを続ける私だけの理由が欲しいと思っている。

例えばそれが、「常に何かを思考し続けてしまう自分が唯一何も考えない時間を取れるから」であるとするならば、常に何かを悩んだり考えたりしてしまう自分にとっての理由付けになりそうだ。だとすると、私にとってサウナは切っても切れない関係、それ無しでは生きられない関係になる。このような私とサウナとの「物語」を、もっと見つけていきたい。

他にも、恋人との関係だったり、運動の習慣付けだったりと、いくつか私の人生における最近のトピックがある。それらについて、私は今どんな壁に立ちはだかっているだろうか。そしてそんな私が”できない”ことを私が”できる”方法でどのように乗り越えることができるだろうか。

その先にきっと、私の物語があるはずだ。

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