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一心不怠、成長無限

「イオンを創った女」と言われる伝説的商人を、かつて一度だけ取材をさせていただいたことがあります。すでに現役を退いて作陶と美術館運営に携わり、メディアの取材をほとんど受けなかった小嶋千鶴子さんが取材を快諾したのは、ある経営学者の生誕100周年特集を企画したときのことでした。

日本のチェーンストア産業の父と言われた渥美俊一氏と並び、倉本長治が重用した経営学者、東洋大学名誉教授の川崎進一先生。今日の投稿では「商業界」2010年3月号より、小嶋千鶴子さんへのインタビュー記事をお送りします。

日本商業の転換点を
「学問」の視点から支えた

振り返ってみれば川崎進一先生には、私どもが向き合ってきた日本の商業の大きな転換期を「学問」という視点から支えていただきました。実業の世界とは適度に距離を置いていらっしゃった川崎先生の教えは、冷静かつ客観的で、示唆に富んだものでした。川崎先生から教えていただいたことは、かつて後進的だといわれていた日本の小売業に理論武装をもたらし、近代化の一途をたどるための礎となったと思います。

現在のイオンが、岡田屋だったころの終戦後の日本は、戦後復興のさなかでした。主要な都市はほとんど戦災にあっていた時代に多くの人は農村から町に集まってきていました。着る物も食べる物もことごとくなかった。みんなが毎日を生きるのに必死でした。

そのころの商売は、今のような「経営」というたぐいのものではありませんでした。経営するというよりも、その日を生きることに精いっぱいでした。大衆の物質的な需要に応えるという商業の原点の様相でした。

ですから、今のように「お客さまのニーズに応えて」なんて、悠長なことは言っておられませんでした。仕入れられるものは何でも売りました。焼けてしまわないようにと川に放り込んであった丸太を下駄にしたり、飛行機の翼になるはずだったアルミで食器を作って茶碗代わりにしたり。残った野菜を漬け込んで福神漬けのようなものをつくったり。何もないから、何でもかんでもが必要だった。だから「手に入る物を売る」という、考えてみればとても原始的な商売でした。

シベリアから引き揚げてこられた川崎先生と出会ったのは、そういった伝統的な小売業がチェーンストアという手法に取って代わろうと変貌を遂げるころでした。戦後の混乱期をくぐり抜ける中で、「小売業を産業として発展させよう」という気運が高まった時代、昭和40年代の初めのころです。

かつて小売業に従事する者は、賃金も低く労働条件も悪く、社会的に低いところに位置づけられていました。日本の商業が後進的だといわれていたのも、小売業に知識の不足という弱みがあったからです。

絶え間なく変化していく世の中で、人々の高度な要求に応えながら十分な役割を果たしていくために、いかに論理的で専門技術を持った知識集約的な組織体をつくるか。業界が抱える大きな課題でした。

ジャスコの前身である岡田屋で、教育を受けた人を大量に採用することを考え始めたのがそのころです。大卒社員採用の本格的スタートに当たっては、学問的な見地から意見をくださる講師の方々をお招きしていましたが、そのうちのお一人が川崎先生でした。

「小売業産業化を目指す
同志のような存在でした」

川崎先生は常に「商業者は学びを重ねよ。理論武装することで労働の質が変わる。その結果、商業の地位は高められる」と説いておられました。川崎先生からは、人材採用への助言にとどまらず、ジャスコの人材育成の講師などでもご尽力いただいておりました。

講義では、アメリカの経済学者ドラッカーの「マネジメント」、同じくガルプレイスの「産業国家」などアカデミックな知識をひもとかれることもありました。ときには、ジャスコの役員会でアメリカチェーンストアの政策戦略や先進技術の何たるかを教えてくださいました。

学ぶことが人をつくり、人をつくることが企業を成長させます。岡田屋のころより自然な風土として根づいていたその精神をさらに飛躍させた講師の重要な一人として、後の「ジャスコ大学(=現在のイオンビジネススクール)」では、初代学長にもこ就任いただきました。

「ジャスコ大学」が象徴しているように、岡田屋は人材教育や人事考課制度などの面で小売業界の先陣を切り、新しいことに挑戦してきた会社だといわれております。私どもにとって川崎先生は、小売業が日本の基幹産業といわれるようになるまで、懸命に取り組んできた同志のような存在です。

「商業者は、もっと知恵を持つべきだ。ジャンルを限らず広く学び、社会情勢を知る姿勢こそ、小売業を発展に導く力である」というのが、私どもと川崎先生とが共有した考えでした。川崎先生との堅い信頼関係の下で、岡田屋はジャスコとして商業の近代的発展を遂げてきたのです。

岡田屋からジャスコへ、さらにイオンへと脱皮を重ねてきた中で、とりわけ尋ねられる機会の多いテーマが「社員教育」です。先ほどの話にもありました「ジャスコ大学」を建学する際には、川崎先生のみならず、当時はさまざまなジャンルの専門家の方々をお呼びしていました。労働法、マーケティング、販売学をはじめ、心理学、社会情勢、言論学、情報管理、哲学と、本当にバリエーションに富んでいました。

知識や技術を蓄積して
それをいかに生かすのか

なぜ、それほど多岐にわたる教育を社員に対して行ったのか。その理山は、企業体として豊かになっていくためには、ある程度の規模を迎えたときの人材マネジメントを考えなければ、その先はないと考えていたからです。資産管理ができなかったり、利益計算のできなかったりする人ばかりが集まっていては、いつまでたっても不安定な経営状態のままということになりかねない。それでは、企業はいつ破綻してもおかしくない状態に陥ってしまう。

知識やノウハウの蓄積をし、それをいかにして生かすのか。そのことに目を向けたとき、規模を拡大する際の段階に応じて要求される資質や能力をマネジメントすることの必要性に気づいたのです。

規模の拡大こそが企業の存続を可能にし、かつ小売業の近代化に結びつく。それがひいては多くの社員の生活を保障することになる。このような信念が、岡田屋という地方の一スーパーから脱皮し、ジャスコという合併会社を形成することになった大きな要因の一つであろうと思います。

企業の「人づくり」を考えるとき、教育と肩を並べて重要に扱うべきは、人事の問題です。岡田屋が合併を経てジャスコへと転換するときには、「ジャスコ大学」という学びの場を整えると同時に、人事のルールも画一しました。社員の納得と理解を得るために、人事メンバーは血のにじむような努力をしていたことも覚えています。

苦労した結果、今までにない人事考課制度ができあがりました。今の言葉にすると、キャリアパス策定プラン、とでもいうのでしょうか。社員一人ひとりが自分にどんな教育が足りないのかを、自分の目で見て判断できるような制度でした。

上に言われて進路が決まるのではなく、社員自身の中に自然と専門志向やチャレンジ精神が芽生えてくる。「紳士服の専門家になりたい」だとか、「メディアツールの専門家になりたい」だとか、「将来は仕入部員になりたい」だとか。それを自己中告書という形で提出してもらい、自身で自覚を持ってもらう制度をつくりました。

上司が一人ひとりの申告書を読むのは大変骨の折れる労働ですけれども、チェックするほうも「うかうかしていると部下に抜かされるぞ」と頑張るんですよね。公平・公正な今の基準を設けることで、さまざまな意味での改革が生まれました。本人が意志を主張する場を設けてそれを公開することは、結局、働く人たちの幸せを考えることだったのだと思います。

初代学長を務めた
ジャスコ大学の先進性

教育や人事制度を整えることばかりではありません。人づくりという視点から見れば、人材採用も同じです。

いくら知識や専門技術が必要とは言っても、単なるテクニシャンを大勢集めても仕方ありません。人間的なことをおろそかにしない常識人を育てることが、企業の永久や成長性につながるからです。

ひいては、そこで働く社員が社会に貢献していることに誇りを持ち、前向きに安心して働き続けることができる。社員の幸せを考えることがすべての「人事」に結びついているのですね。

企業で働く人材に、今も昔も求めて変化しないこと。それは、うそを言わない人であることです。企業の盛衰は、詰まるところトップの意思決定の結果ですから、集まってきた情報にうそがないことが何よりも肝心です。

必ずうそを言う人はいるんですよね。自分を良く見せたり、自分に不利なことは言わなかったりする人です。それは、生まれながらの素質の一つで、なかなか直すのは難しいのです。

人の本質を、採用の段階でどう見抜くか。見極めはとても難しいものです。結婚と同じかもしれないですね。結婚の場合は、素質が子供にまで遺伝するから、もっと慎重になりますね(笑)。

組織は人間がつくるもの。言い換えれば、組織は人の構成によって初めて完成し、機能するものです。正直な人かどうかを見極めて採用した後は、組織づくりにおいて基軸となる人材である彼らを育成していくシステムが最重要課題です。素質を見抜いて迎え入れ、育てていく上で大切だとジャスコが考えたのが、基礎教育でした。

基礎教育とは、企業の求める人材に対する教育のことです。ですから、人を採用しよう、育てようと思うときには、どういう企業になりたいかをまず考える。そうすれば、おのずとどんな人材が必要なのかも見えてくるはずです。

商業の現場において、入社後の人づくりのための基礎教育をシステム化に成功した「ジャスコ大学」は、日本の小売業の近代化を一気に推し進めた先進的なものでした。そのことを振り返るとき、川崎先生から教わった「一心不意に学びを重ね、商業者として無限に成長し、その地位を高める」という精神を思うのです。

良い会社には良い人が集まります。良い社会貢献ができ、誇りが生まれます。その連鎖こそ、会社の長期的かつ明確な理念と風土、ビジョンを生み出すことでしょう。

□小嶋千鶴子
1916年三重県四日市市に生まれる。40年に23歳で、株式会社岡田屋呉服店の代表取締役に就任。その後、6年間代表取締役を務めた後、後見役として現在のイオングループを支えた。イオンの「人事の思想と方針」を貫くという功績を収め、60歳で引退。2003年、三重県菰野町に私設美術館「パラミタミュージアム」を開館。以来、さまざまな企画展を催し、三重県における文化の向上に資する。また同美術館では中学生以下の入館料を無料にするなど、三重県下における美術教育の普及にも尽力。2005年、岡田文化財団に寄贈して館長を退いた。自身は70代に入って作陶を始め2022年5月20日、106歳で永眠。


□川崎進一
1910年新潟県生まれ。1936年東京大学経済学部卒業後、大連経済専門学校教授、新潟大学人文学部教授、東洋大学経営学部教授を歴任。経営指導においては小売業の産業化・近代化の理論的指導者として、ジャスコ(現イオン)、コメリほか多くの小売企業の成長発展を指導。教育者としては、前述ほかカリフォルニア・コースト・ユニバーシティ・ジャパン教授、商業界リテイル・マネジメント・スクール校長として後進の育成に努めた。また、日本リテイリングセンターのマネジメントコンサルタント、商業界同友会参与として、日本の商業発展に尽力。2001年12月25日永眠。

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