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お父さんと私

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お父さんの病気と死とそれを乗り越える過程の記録。 大好きなお父さんに見つかった病気、逃れられない死。荒波のように揺れ動き、そして静かに穏やかになっていった私の気持ちや起きたことを… もっと読む
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他界したお父さんと話をした日

またスピリチュアルな話なんだけどまだぎりぎりお盆だしいいかな笑 私のお父さんは、4年前に他界している。62歳だった。 病気で余命宣告もされていたので、周囲も心の準備がしやすいといえばしやすいのかもしれないけれど 私にとって、父の死は消化しきれない思いがたくさん渦巻いていた。 「お父さんは苦しみながら、もっと生きたかったのに死んでしまった。かわいそうだった」 そういう思いが、私を支配した。薬の副作用や、重くなっていく病症に耐え切れないで「辛いよ」という父が脳裏に焼き付

お父さんと私① がんが見つかった日

父にステージ4のがんが見つかり、余命宣告を受けた1年半後、この世を去りました。父が病気になって、私の心は大きく揺さぶられました。その時のこと、父を失って悲しみの中にいた時期から、乗り越えた今までを少しずつお伝えします。(最終的にハッピーエンドです!) 大切な人の病気や死を経験してみて、一番お伝えしたいのは、荒波のように不安や悲しみにのまれた時期から、だんだんと受容、感謝の次期へと移行して、また自分自信に戻ってくるということ、それらの感情はあるべき時に起きている、ということで

お父さんと私② がんとか手術とか血栓とか

大腸の機能を回復するために、父は人工肛門の手術を受けた。本人としては、毎日五分がゆばかりだったので、人工肛門をつけて早く普通の食事がしたいそうだ。 しかし、そう簡単に進まなかった。人工肛門の手術を終えた後、父はがんセンターに入院することになった。がんが大きすぎて摘出手術はできないため、抗がん剤治療でがんを小さくするという治療方針に至った。 父は少し、元気になっていた。私はがんセンターの感じが嫌いではなかった。普通の病院よりも、明るくて、自然があったし、私には柔らかい雰囲気

お父さんと私③ 病気と仕事と休職と 大切なものは何だろう

抗がん剤治療が安定し、入院から通院に変わると、父は半年近く休んでいた(とは言っても職場に通勤しなかっただけで毎日原稿を書いていたが)職場に戻ることになった。 私としては、もっと休養してほしかった。家でできるのであれば、毎日出勤せず、家で働けば良いのに、どうしてお父さんは自分の身体を大切にしないのだろう、と怒りにも近い感情が芽生えていた。 だいたい、働かせかたもおかしい。60歳の人を、北海道やら長崎やら、月に何回も出張に行かせるなんて。付き人がいるわけでもないから、手配も全

お父さんと私④ こどもの結婚ほど切な嬉しいことはないのかな

夏頃の検査結果で、がんが小さくなっていることがわかり、父本人にも、家族にも安堵感が広がった。腫瘍マーカーの数値もだいぶ減った。 父は体調を崩す前まで、「和楽器バンド」をよく聞いていた。和と洋の融合した、新しい音楽に魅了されていた。毎日のように大音量でかかっていたこともある。退院してきてから、それがパタリと途絶えてしまっていたが、このころまた和楽器バンドを聞いて仕事している。その様子を見て私は少しほっとしたのを覚えている。 相変わらず抗がん剤治療の副作用はひどいので、何を食

お父さんと私⑤ 終末医療へ

父の病気が見つかってちょうど1年経つころ、がんが肺に転移していることがわかった。私も母もショックだったとは思うが、一番ショックだったのは、父本人だろう。この日は言葉がとても少なかった。 そんな状態だというのに、(そんな状態だからだろうか)、明日までに書き上げたあい原稿がある、と言って夜遅くまで仕事をしている日があった。身体のことがとても心配だったが、母も私も止められなかった。母は、「お父さんから仕事は奪えないよ。」と言っていた。父にとって仕事は生きがいだった。本当は、止めた

お父さんと私⑥ がんと向き合う 終末医療と向き合う

父が抗がん剤治療を終了させるということは、延命治療をしない、ということで、一般的には、近々最期に向かっている、ということになる。 父の母(私のおばあちゃん)には、弟がいる。私は会ったことがないが、健康に問題があるという理由で、仕事に就いたことがない。祖母は生前、弟の生活を援助していた。祖母が亡くなってからは、祖父が援助していたのだろうか。詳しくはしらないが、生前、祖父は父に、「あいつのことは構うな」と言っていた。援助はしなくていいと。しかし父は、毎月アパート代、生活費を忘れ

お父さんと私⑦ 病気を治すことが全てじゃない

家に帰ってきた父が、私に最初に言った言葉、 「孫がこの家で走り回っている姿を見たい」 その時は、あまりに突然だったので、「走り回るには4年は生きなきゃね」とか冗談まじりに言っていたが、 この言葉は、なんだかとても重かった。 私もそれを望んでいたからだろう。それが現実になりそうにない今、重かったのだ。 それでも、父の生きる希望になるなら、と、そんな動機で子どもを望むようになった。 父はひとつ論文を書き終えたようだ。何週間か後、その論文が載った誌が父の元に届いた。それ

お父さんと私⑧ 最期を受け入れる過程

日記から 例えばお守り、ヒーリンググッズ、天然石などは、とても良い波動や波長を持っていて、音を聴いたり、触れたりすると、それだけで癒しが得られるという。 人にそれは可能だろうか。触れたり、歌ったり、声を聞いたりするだけで、癒しが生まれる、天然石のような人になりたい。 ー--------------------------------- 7月に入った。私はこのころから、右耳うしろから背中にかけて一直線にビキビキと痛みを感じるようになった。時々喉のほうまでムズムズと何か感

お父さんと私⑨ 看取ることへと気持ちが移行していく時

しっかりと記憶していないが、あの晩のあと、点滴やら痛み止めやらいろいろなものをいつでも摂取できるように腕につけていたように思う。 新婚旅行を先延ばしにし、私たち夫婦は結婚して初めての夏季休暇を家の近くの旅館で過ごした。しかし、父の状態に不安もあって、心がざわざわと落ち着かなかった。 父の病気が見つかる直前まで、私は「うつ」と診断され、1年仕事を休職していた。その時、父がNHKでやっていた「ティクナットハン」というお坊さんのドキュメンタリーを観ていて、私も食い入るように観た

お父さんと私⑩ お父さんを看取る

旅館からの帰り道、映画を観て行く予定だったが、私は父のことが気がかりで、とても映画どころではなかった。 旅館を出たその足で、父に会いに行った。 実家には東京に住んでいる妹が来ていた。夕方には信州の方にいる弟も帰省するそうだ。 兄弟がいて少し心強い。母が、父が誰かといれるようにと、書斎に誰もいなくなると、「お父さんと一緒にいてあげてちょうだい」と言った。 書斎で寝ている父は、目は空いていたが、もう視点が定まっていないようだった。目には黄疸が出て黄色くなっていた。腕を何や

お父さんと私⑪ 父が亡くなった日

明け方母から電話が来た。 父がもう息をしていないので、亡くなったと思う。今先生を呼んでいるので、実家に来てくれないか、という電話だった。 ”理解”はしていたが、”受け入れることは難しい” いや、昨晩はとても落ち着いて、”受け入れて”いた。だから、恐怖に襲われず、眠りについた。 ”諦める”とは、”明らかに見る”こと。そんなことを誰かが言っていた。昨晩はそんな感覚だった。 けれど、母からの電話に私は涙がこらえられなかった。 電話を切ったあと、わんわん泣いた。 実家に

お父さんと私⑫ 納棺式 父の身体に感謝を伝える

映画「おくりびと」で観たことがあったが、亡くなった人のお化粧は、生きている人よりも大切な気がする。 化粧を施してもらった父は、黄疸や抗がん剤治療の際にできたしみがわからないくらいきれいな顔になった。 父に触れる最後の機会だ。私たち家族は、父の腕や足をきれいに拭いてあげた。母が「かたくなったね」と、亡くなった直前はまだ生きているようにやわらかく、あたたかかった手を触って言った。 父に触れると、やはり涙がとまらなかった。 納棺式。父を棺に入れる。すっかりやせ細ってしまった

お父さんと私⑬ 父の葬儀

日記から 一週間経ちました。早いものです。一週間の休みを終え、久しぶりの職場でした。思ったより私は切り替えができるようです。黙々と仕事に励みました。 さて、葬儀について、お話します。 お通夜で100人、告別式で100人、合わせて200人以上の人が来てくださいました。父の会社の貢献がどれだけすごいものだったかというのを物語っていました。 告別式、やはり父の顔を見ると、悲しさがあふれます。涙が止まりませんでした。火葬場で見送るのは、非常に辛かったです。 おばあちゃんにお