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働く人びと

神戸市立小磯記念美術館にて開催中の「働く人びと」を見た。

「働く人びと」は、小磯良平生誕120年を記念した企画展示。小磯良平の大作「働く人びと」を中心に、小磯が生きた戦後日本から現代までの様々な美術家の作品を通してヒューマニズムを炙り出す試み。
同年代のアーティスト、乙うたろう氏が出品していることからこの展示を知った。

乙うたろう氏は、美術家にとって働くとは?というテーマの最終章で紹介されていた。
展覧会の構成は、戦後日本の混乱の中働く人々、労働運動や、社会の中で、家庭の中で、働く姿を描いたものなど、小磯作品を中心に働く人々を描いた近代の洋画たちが並び、そして現代アートの作家による現代の働く人々を描いた作品まで、コンパクトにまとまっていたが、まさに、働くってなんだ?と作品を通して考えさせるラインナップであった。
その一番最後のエリアに、乙うたろう氏の作品はあった。


乙うたろう氏の「つぼみ」

乙うたろう氏は現代美術家として活動しながら、小学校で図工の教員として働いている。
展示物は、氏の美術家としてのバイオグラフィー、作品たちと並列して、氏が図工の先生として働く中での制作物、式典の立て看板や授業の参考作品などが一緒に展示されていた。そして美術作品を作ること、小学校で働くこと、その中での葛藤についてのテキストが共に掲示されていた。

乙うたろう氏のことは直接の面識は無いものの、作品にまず興味を持っていた。と同時に、氏のSNSを眺めると、はっきり名言こそされていないものの、どうやら教員として働いている様子が窺い知れた。学校現場での制作物らしきものなどが投稿されており、そのクオリティーの高さに驚き、関心していた。
今回の展示は、乙うたろう氏の美術家としての表の顔、一方で、教員であり労働者としての裏の顔、あるいは表と裏が逆なのか?そんな等身大の作家であり市民の暮らしをありのままに開示するものであった。

彼の、アーティストとしての活動、作品と、教員として働く中での制作物を、地続きに見せる姿勢には、勝手に共感の気持ちを抱いてしまう。
なぜなら僕も立場は違えど、小学校で勤務しているからだ。その中で、掲示物を作ったり、図工の授業を手伝ったりすることも多々ある。また、自分で絵画教室をやっているから、子どもと接して何かを作る機会は多い。あるいは、まったく別の仕事をしている時もある。僕も乙うたろう氏と同じように、そのような「労働」の間の時間で、自分の作品をつくっていると言える。



乙うたろう氏と言えば良いのか、前光太郎さんと言えば良いのか、彼の小学校での制作物は、とても誠実なものに見えた。

図工授業のための作品から


小学校にほんの少しだけだが関わっているうちに、気付いたことがある。
それはこの教育という現場は、成果が見えないということだ。
子どもにとって何が良い学びとなるのか、ほとんどそれは数値化できない。テストの点数?それとも学習態度?授業中に手を上げる数?
何をもって子どもを評価すれば良いのだろう?
図工なんて特にそうだ。綺麗に色を塗ること?早く完成させること?それとも目新しさやテーマ性?何が正解なのだろう。わからない。しかし、成績はつけなければいけない。どのように点数をつければいいのか、先生からお悩み相談をされることもあるくらいだ。

もう一つ、なんとなく分かったのは、授業のことやその他諸々の業務が、結構担任の先生に委ねられているということだ。
もちろん決められたカリキュラムや時間数はあるのだけど、自由裁量というか、取り組み方は先生次第なのでは無いだろうか。例えば図工の授業であれば、素材やテーマはあるけれど、こんな作品を作りなさいという決まりは全く無い。教え方も勿論、素材やその使い方、細かな部分全てが決められている訳では全然ない。
つまり、何を目的にどう取り組むか、教える先生自身も、やりながら考えるしかない訳だ。けれども、その工夫を凝らした教育の成果というものは、子どもの学びというものは、数値化されず目に見えてこない。簡単に成果が共有できないのだ。

要するに、教育という仕事は、具体的な「やりがい」が見えづらい。
もっと突っ込んで言えば、頑張りが給与に反映されることもおそらく少ないだろう。子どものテストの点数を上げればより高い報酬を貰えるという訳ではないし、そもそも学習の結果なんて目に見える形ですぐに出るものではないと思う。
だから、言葉は悪いけれど、サボろうと思えばいくらでも手を抜ける。授業をこなすことがタスクであり、その学びの結果は研究対象ではあるものの、具体的な必要条件があるわけではない。

そもそも、子どもを教育することはできるのか?
子どもをコントロールすることはできるのか?して良いものなのか?
教育とはなんなのか?
そんなことを考える場面が、実際に子どもと接していると多々遭遇する。

お世話になっている先生が学校現場で働く時の心構えとして引用された言葉がある。

「教育とは、流れる水に文字を書くような儚い仕事なのです。」
「しかし、それをあたかも岸壁に鑿で刻みつけるほどの真剣さで取り組まなければならないのです。」

森信三という人の言葉で、僕はその人については何も知らないのだが、学校で働くということに対する先生の覚悟を感じて、僕は素直に感銘を受けた。



乙うたろう氏の、前光太郎さんの小学校での制作物を見ていると、自らの手を使って、子どもの心に光を灯そうとしている気持ちが伝わってくる。
決してタスクで作られたものではない。いや、最初はそうだったのかもしれないが、限られた時間で、あるいはその時間をオーバーして、自分の技術を最大限伝えようとしているのがわかる。

立て看板

入学式や修了式など式典の立て看板は、学校で豊富にある色画用紙という素材の特性を引き出し、色彩の透過性と対比させて見せている。
SNSで見ていた時は、小学校での制作物ではなく中学か高校くらいだろうと思っていたくらいです。僕も色画用紙を使って掲示物を作ることがありますが、掲示物制作は、とにかく時間と手間がかかり、簡単に予定時間がどんどん溶けていきます。しかし創意工夫を凝らす必要性はぜんぜん無いわけです。なんとなく子どもらしく楽しいものになればそれで良い。だから自分の中の美意識が文句を言い出す前に、とにかく手を動かし続ける。作業なのです。作品なんてもんじゃない。けれども、この立て看板を眺めると、同じようなマインドで作ったものとはとても思えない。堂々としていて、立派に、展示室に立っている。僕が作ったものたちが恥ずかしく思えてくる!ああ、作り直したい!


テキストでは教員としての仕事に対する葛藤が書かれてはいたものの、僕には誠実に向き合っているようにしか見えなかった。だからこそ、こうして光を浴びて展示されているのではないだろうか。

さっき僕は、教員という仕事は「やりがい」が見つけにくいのではないか、と言った。しかし、この話は実は他のほとんどすべての労働にも言える話だ。
現代を生きる多くの人々は仕事に「やりがい」なんて見つけられずにいる。
果たして自分のやっていることに意味はあるのか?考えながら悶々としていたり、そんなこと考えもせずにただタスクをこなして生活している。

けれど、この「労働」に対する向き合い方はおそらく、時代によって変化してきたものだろう。大昔の狩猟民族は狩りという仕事をすれば獲物という成果がすぐに手に入るので、「やりがい」なんて考えもしなかっただろう。(いや、そうとは限らないかも?)あるいは労働運動が盛んだった時代であれば、仕事の「やりがい」の意味もまた現代とはきっと異なるだろう。
例えばインボイス制度に対応する書類作成に追われる事は、必要な仕事ではあるが、僕には重要な時間には思えない。しかしそれはやらなければいけないのだ。なぜならばそれが「労働」であるからだ。

「労働」と「美術」、その対比。
「美術」は「労働」ではない?
「やりがい」がある?
そうだろうか?美術の作品を作ること、アートをやること、制作活動をすることに「やりがい」なんて、あるものだろうか?

美術の「成果」だって、子どもの学びと同じくらい見えづらい。
サラリーマンは、成果は売れることだ!と言うだろうけど、売れることが成果だと思っている者は制作活動をそもそもしないだろうし、こんな非効率的なことはそのような考えの上では成り立たない。

では、なんのために作るのか?
やらなければならないから。である。
「成果」や「やりがい」が無くても、手を動かし続けなければならない。
「労働」と「美術」の境目は実はそんなに無いのかもしれない。

小磯良平の絵を見てみれば良い。
理想化された身体がキャンバスから切り出され続けている。どれも均質で、精巧なフィギュアたち。
その姿は、僕には「美術」というより大工仕事のように見える。会田誠のサラリーマンの山と変わらない、美術の制作とは、「労働」の積み重ねなのだ。

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