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Painting Love

enartsで開催しているグループ展を見てきました。

展覧会詳細

京都市立芸術大学出身の画家5名の作品が展示されています。
皆さん僕の先輩にあたる方々で、年代的に一回り上、80年代生まれの作家になります。

高校生の頃、京芸の卒展で、関口正浩さん、松田啓佑さんの作品に初めて出会いました。
たしか学内展だったと思う。関口さんはカラフルな油絵の具の塗膜をコラージュしたような作品で、松田さんは激しいストロークで巨大な排泄物を描いていた。その時の光景は印象によく残っています。
当時の僕はマティスの画集を夜な夜な開いてから安眠するような、ちょっと珍しい絵画依存症の青年でした。田舎で暮らしていた僕には絵画くらいしか面白いものが無かったのです、マジで。そんな僕が二人の絵を見た時、なんというか、この学校はまともじゃないと思いました。パワフルで、インテリで、かっこよかったのです。圧倒されて、そして沸々と自分の中に何か闘志みたいなものが湧き上がってきたのを覚えています。

あれから10年?いや、もっとかな。15年くらいか?それ以上?時が経ち、もう一度、先輩たちの絵を眺めることが出来て、僕は嬉しかったです。
昔話になるけれど、京芸における独特のフォーマリズムを感じました。それはスタイルや伝統と言えるほどのものではなく、味付けのようなもので、絵画の平面性を基盤としながら、素朴にメディウムを捉える、かっこつけないクールさ、みたいな、関西人の笑いの美学?話が逸れそう。戻すと、イキらずにシュッとさせる、ああ、これは伝わらなさそう。わかりやすく言うと、横文字のアートに倣うのではなく自分たちの絵画、手垢の付いてない美術をやる、そんなセンスだと僕は思っています。(結局曖昧な言い方に…。)

関口正浩さんは油絵の具の塗膜をバロック化させながら図と地のダイナミズムを極限まで推し進めた絵画。
松田啓佑さんの作品は、油絵の具のストロークそのものが具現化したイメージ、その皮を剥いだ肉体になっている。
初めて拝見した池谷保さんの作品は、光学的な空間とメディウムの侘び寂びをなめらかに往還させるレイヤー絵画。
この三人のちょっとマニッシュなフォーマリズムに対して、風能奈々さんと西太志さんの作品は絵画の平面性をしっかりと露わにしつつも、内的な世界に画角が切り替わっていたのが面白い。

美しかったです。

こういった独特のフォーマリズムは、世代的な流れがやはりあったと思う。このフォーマリズムは、京芸の中で一定の歴史を持っているわけでは全くなく、個々の受容と反動によって絶えず変化し全体として動いてきたもの。誰かに言葉で示されたものではなく、個人が個人の作品に向き合い、作品で対決してきた結果。だって美大なんて、ほんとに何にも教えてくれないからね。全部自分らで考えてやるしかないんですよ。恐らくだけれど、一時関西具象系ペインティングが流行ったその反動として、無骨なメディウムに立ち返ったフォーマリズムが出てきたんじゃないかな。そしてそのフォーマリズムに対して、さらに僕らは回答しているんですよ。無意識であっても、先輩たちに影響されているんですよ。

普段はあまりこういうの言うキャラじゃないんですが。生まれや育ちは関係ねぇ!って強がるタイプなので。
けれども、自分以外の視点というものは、僕の中にも明確にあるんですよ。
絵を描く時、自分の好きなように描きながら、誰かに常に見られている感覚が僕にはあるんです。
あの人が見たらなんて思うだろう?
あの人は喜んでくれるだろうか?笑ってくれるだろうか?ウケてくれるだろうか?
お天道様のような存在がいつも僕の絵を見てくれていて、その人を唸らせたい、驚かせたい、そうでなければ、自分だけが納得してたって意味がないと思う。
絵画を愛する人々に向けて絵を描くことが、僕を救ってくれた絵画に対する奉公になるはず。
そのことを忘れないでいたい。

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