私の通産省訴訟対応論 私は、1990-2000年当時、通産省から、二回、訴訟を起こすと事前警告を受けたことがあり、原因は、流行作家並みになり、社会的発言力が増したため、さらに、在職した通産省管轄の原子安全解析所の機能メカニズム(通産省と科学技術庁と電力会社と原子炉メーカーの綱引きや原発安全解析の実態、さらに、私が、四基の原発の安全解析に従事したことから機密情報がらみ)を知りえる立場にあったことに起因、不本意だが、第三者調整で終止符

私は、1990-2000年当時、通産省から、二回、訴訟を起こすと事前警告を受けたことがあり、原因は、流行作家並みになり、社会的発言力が増したため、さらに、在職した通産省管轄の原子安全解析所の機能メカニズム(通産省と科学技術庁と電力会社と原子炉メーカーの綱引きや安全解析の実態、さらに、私が、四基の原発の安全解析に従事したことから機密情報がらみなど)を知りえる立場にあったことから、通産省ノンキャリアで、原子安全解析所副所長の職位にあった高嶋進さんが、神経をとがらせ、「通産省に不都合なことに触れてくれるな」「通産省技術顧問の誰々としないで、何々大学の誰々としてほしい」と威嚇してきたため、「受けて立つ」と答えたが、知り合いが仲介し、高嶋さんの要望を聞き、私に自粛するように戒めたため、二回とも、訴訟に至らず、事前調整により、私の意志とは、無関係なところで、解決が図られたものの、その後の私の主張が、トーンダウンしたわけではなく、単なる相互の睨み合いが続いただけでした。
私は、1991年2月9日に発生した美浜2の伝熱管破断事故の際、日本の原発安全解析と安全審査にかかわる通産省にとって「不都合な真実」を論文に記したことがあり、高嶋さんなどは、神経を尖らせていましたが、技術評論家としては、越えなければならない試練でした。

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