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蘇我氏とは何をした人たち?初心者向けに解説

歴史の教科書にも出てくる蘇我氏そがしは、何をした一族だったのかと疑問に思いませんか?

蘇我氏とは、6世紀から7世紀にかけて大きな権力を握っていた氏族です。

蘇我氏の主な人物や本拠地などを紹介します。

蘇我氏とは

蘇我氏とは、古代日本から存在した、6世紀から7世紀にかけて、大きな権力を握っていた氏族です。

5世紀に大きな勢力を持っていた葛城氏から、独立した集団が蘇我氏になったと言われています。

葛城氏の持っていた政治力や経済力などを継承したと思われ、突然頭角を表した集団ではないと考えられます。

蘇我氏の人物

蘇我氏の家系図(一部)

蘇我稲目

蘇我氏では、蘇我稲目そがのいなめが実在が確認されている最初の人物です。

稲目以前には、満智、韓子、高麗と呼ばれる人物が文献に記されているが、実在していたか疑わしい存在です。

稲目は、大臣という天皇の次に値する地位であり、娘2人を欽明天皇の妃にするなど、蘇我氏として強い権力を持っていました。

稲目の時代の蘇我氏が行った政治活動は、各地方に屯倉みやけという国の直轄地を設置したことです。

地方行政組織のようなものであり、各地方の支配を進めました。

周辺の農民を田部たべという立場に指名し、労働によって屯倉の経営を行います。

6世紀半ば頃に、朝鮮半島の百済から仏教の法典や仏像が送られ、日本に仏教が伝わり
ました。

稲目は、諸国が侵攻している仏教を取り入れるべきだと主張するが、物部尾輿や中臣鎌子らは拒否したとのことです。

外国の神を信仰することは良くないという考えだと思われます。

しかし、物部氏の本拠地に仏教の寺があるなど、完全に拒否していなかったようです。

稲目が仏教を取り入れた理由は、国の発展のために先進的な考えを持つべきだと判断したからです。

諸国が仏教を信仰している中、先進国の仲間入りを果たすためには受容する必要がありました。

稲目は570年3月1日に死去しました。

稲目の墓は諸説あるが、奈良県高市郡明日香村にある都塚古墳と言われています。

蘇我馬子

蘇我馬子そがのうまこは、稲目の嫡子であり、稲目が亡くなった直後に大臣を受け継ぎました。

直後に大臣に就任したことが事実なら、20歳ほどの若年です。

稲目の時代に、蘇我氏と物部氏との仏教を受容するかの論争が、世代を超えて馬子の時代に抗争が起こります。

仏教が原因と言われていますが、お互いの権力争いも含まれています。

結果は蘇我氏側が勝利し、物部氏は衰退しました。

抗争の後は崇峻天皇の時代ですが、馬子によって暗殺される事件が起こります。

記録上、臣下によって暗殺された天皇は崇峻天皇だけです。

馬子が崇峻天皇に嫌われていることを恐れて、殺害を決行したと言われています。

しかし、崇峻天皇の考えに不満を持つ、他の臣下たちの同意の下で行われた可能性があります。

その後即位したのは、日本初の女性天皇である推古天皇です。

蘇我馬子、聖徳太子、推古天皇の三者を中心とする政治体制が始まります。

聖徳太子と推古天皇は蘇我氏の血縁なので、蘇我氏の権力は集中していました。

620年には、馬子主導で国史の作成が行われました。

遣隋使において、日本側が自国の歴史や神話などに答えられなかったことが理由だと思われます。

6世紀末から7世紀初頭あたりに、馬子は日本初の本格的な伽藍配置の仏教寺である、飛鳥寺を建立します。

仏教が広まっていく時代であり、飛鳥寺は中心となる寺でした。

626年に馬子は亡くなり、50年以上も大臣に就いていました。

馬子の墓は、奈良県高市郡明日香村にある石舞台古墳と言われています。

蘇我蝦夷

蘇我蝦夷そがのえみしは、馬子の嫡子であり、馬子と同じですぐに大臣に就任しました。

記録されている中で蝦夷の最初の仕事は、推古天皇の後継者を選ぶことでした。

聖徳太子の息子の山背大兄王と、皇族の田村王が有力候補であり、田村王が選ばれ舒明天皇として即位します。

蘇我氏の血が濃い山背大兄王よりも、優位性のある田村王の方が適任だったと思われます。

しかし、後継者を選ぶときに、蝦夷と叔父の境部摩理勢とで対立が起きました。

蝦夷は田村王を選びましたが、摩理勢は山背大兄王を支持しました。

摩理勢は蝦夷に対して反発し続け、最終的には蝦夷の派遣した軍に殺害されます。

蘇我氏が分裂する危機を解決するために、殺害するという強引な手を使ったと思われます。

蝦夷の最後は、乙巳の変で息子の蘇我入鹿が殺害され、その後自ら自害しました。

蘇我入鹿

蘇我入鹿そがのいるかは、蝦夷の嫡子であり、蘇我氏本家において最後の人物です。

学識に優れており、統治技術や国際情勢を積極的に学んでいたと言われています。

642年に、入鹿は蝦夷を越える権力を持っており、横暴な振る舞いがあったと文献に記述されています。

八佾(やつら)の舞という、臣下が行ってはいけない舞を行ったり、勝手に国民を動員させて墓を作らせたりしました。

643年には、蝦夷が勝手に入鹿を大臣に就任させ、蘇我氏の氏上(当主)にしました。

本来は大王(天皇)から任命される仕組みです。

しかし、蝦夷は紫冠という位を入鹿に授けて大臣にしたという内容であり、紫冠だと蘇我氏内部で継承しても問題なかったという考えがあります。

氏上にするのも、氏族内での事情なので問題はないです。

権力を持った入鹿は、舒明天皇の子で、蘇我氏の血族でもある古人大兄王子を支持するために、上宮王家を滅ぼしました。

山背大兄王を含む上宮王家は、聖徳太子の一族であり、蘇我氏にとっては権力を握るかもしれない存在です。

この行動に対して、蝦夷は怒ったと伝わっています。

しかし、645年に乙巳の変が起こり、入鹿は暗殺され、蝦夷も自害に追い込まれました。

乙巳の変とは、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となり、蘇我氏本家を滅ぼしたクーデターです。

蘇我氏の横暴を止めるため、国の改革を行うために乙巳の変は起きました。

中大兄皇子は、天皇を中心とする中央集権国家が理想と考えており、そのためには力づくで解決するしかなかったと思われます。

これにより蘇我氏本家は滅び、分家である蘇我倉麻呂の一族が権力を持ちました。

だが、藤原氏の台頭や、壬申の乱による敗北などで、蘇我氏は表舞台から消えていきます。

本拠地

蘇我氏の本拠地は、大和国曽我(橿原市曽我町)です。

蘇我氏の本拠地は3つの候補があり、河内国石川(現:大阪府南河内郡付近)、大和国葛城(現:奈良県御所市、葛城市付近)、大和国曽我(橿原市曽我町)です。

この時代は、地名をもとに家名を作り、その地を領土とする考えがありました。

大和国曽我には、宗我坐宗我都比古神社や入鹿神社など、蘇我氏に関係する神社があります

先祖の石川宿禰、分家の蘇我石川麻呂の石川の部分に着目すると、河内国石川も蘇我氏の領土と考えられます。

蘇我氏渡来人説

蘇我氏が、異国から来た渡来人だという説があります。

日本書紀では、414年あたりに百済の木満致もくまちという高官が渡来したという記述があります。

蘇我氏の先祖である蘇我満智が、木満致と同一人物だという考えが、蘇我氏が渡来人と言われる理由です。

満智以降の蘇我韓子、高麗といった朝鮮風の名前も、渡来人説の理由の一つです。

しかし、文献の信憑性、百済の高官が倭国で重要な位に就くという不自然さなどから、渡来人説は否定されています。

まとめ

・蘇我氏とは、古代日本から存在した、6世紀から7世紀にかけて、大きな権力を握っていた氏族である

・蘇我稲目は、蘇我氏で実在が確認されている最初の人物

・蘇我馬子は、50年以上も大臣に就いていた重鎮である

・蘇我蝦夷は、天皇の後継者選びで分家と対立した経歴があり、最後は乙巳の変の後に自害した

・蘇我入鹿は、蘇我氏本家では最後の人物であり、乙巳の変で殺害された

・本拠地は大和国曽我(橿原市曽我町)

・渡来人説があるが、現在は否定されている

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