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【読書感想文】なぜ働いていると本が読めなくなるのか

僕自身は、ここ最近は、働きながらもしっかり本が読めているので、最初、この本のタイトルにはあまり共感できなかったのだけど、帯に「疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ」と書いてあったことには、俺じゃん・・・とドキッとしたし、最近、注目している哲学者の方(朱さん)が書評を書いていらして、それが面白そうだったこともあって、これ、もしかして読んだほうがいいやつか・・・?という気持ちで読み始めた。

結果、めちゃくちゃ面白かった。


おじいちゃんが勧めてくれた「竜馬がゆく」

前半は、「本」を軸にしながら、日本の近現代史を概観する、という内容。このパートによって、僕は、自分が小学校高学年のときに「竜馬がゆく」を読んだ理由を、マクロ的な観点で理解することができた。これが、まず面白かったポイントその1。

僕が「竜馬がゆく」を読んだ直接的な理由は、祖父が自分の蔵書を小学生だった僕に勧めてくれたから、だったのだが、その祖父は、出版年と、祖父の年齢を考えると、まさに、今の僕くらいの年齢のときに、竜馬がゆくを読んでいたと考えられる。

本書によれば、1970年代、高度経済成長期へのノスタルジーを投影する対象として、司馬遼太郎の小説が読まれていたのではないか、と考察している。本書での考察の対象となっているような「サラリーマン」として、司馬遼太郎の読者だったと想像される祖父が、どんな気持ちで竜馬がゆくを読んでいたのかが想像できた気がしたのが、すごくよかった。おじいちゃんに今度あったら、感想を話したいなあ。

労働で自己実現をする時代へ

しかし、1990年代前半くらいまで読んでも、働いていると本が読めない理由はわからないなあ、なんて読み進めていたら、2000年代に入るあたりから、ギュンッと考察が加速して、一気に面白くなった。

自己実現という言葉を思い浮かべると、自然と、仕事で、と考えてしまっていないか、という指摘にはドキッとする。自己実現という言葉を使わなくても、将来の夢は?と聞いたときに、5歳の息子も職業を答えちゃうくらいには、いまの世の中は、自己実現と労働が強く結びついている。

そこからの本書の論旨を僕なりに要約するとこういう感じ。
自己実現ができている状態、もしくは、自己実現をしようと邁進している状態、というのは、すごく気持ちがいいので、自然と、労働の負荷が高まる傾向になる。
このときに、労働以外の要素は、邪魔者となるが、インターネットの興隆によって情報が容易に入手できるようになった時代において、自己実現に貢献する純度の高い情報と、そうでないノイジーな情報の2種類の情報が存在するようになった。
検索であったりとか、ゲーム、SNSは自分のニーズとのマッチング度合いが高いという意味で、純度の高い情報。一方で、読書の場合は、一冊の本のボリュームからしても、一定程度純度が低くなり、ノイジーな情報に位置づけられる。
ノイジーな情報を摂取することは、労働での自己実現の妨げになる行為なので、本が読めなくなってしまう。

この流れを、マクロ視点で新自由主義との関連で説明しているのは、なるほど、と感じたし、2020年代に池井戸潤さんなどの労働をテーマにした本が流行した背景としても記述しているあたり、自分の実感と重なる部分があるので、たしかに・・・とうなりながら読んだ。

僕自身が本を読めている理由から、著者の主張を考えてみる

さて、冒頭書いたように、僕自身は、働いているけど、本は読めている。わかりやすく、金額で示すと、本書の中で年間の平均書籍購入金額のグラフが出てくるが、2021年の平均値が1万円を切っているのに対して、僕は、おおよそ一ヶ月で2万円くらいは本にお金を使っている。

いや、ちょっと本にお金つかい過ぎでは・・・という気もするが、これを正当化しようとして、「自己投資なんで」とか言っちゃった場合には、労働に還元して労働で自己実現しようとしている今の時代の呪縛から抜け出せない感がでちゃうが、どっちかというと、本を読むのが好きすぎて、読むのがやめられない、という感覚に近い。本の虫。

著者の三宅さんは、「全身全霊をやめて半身社会に」と主張されているが、もしかしたら、僕の状態はこれに近いのかもしれない。
仕事については、勤務時間においてはとっても全身全霊で働いているものの、会社は定時退社を強く推奨しているので、労働時間が長時間化することがない。さらに、子供が三人いて夫婦共働きだし、妻の勤務形態的にいわゆるワンオペになる局面が避けられないので、家事育児の側面から見ても、労働にだけ没頭することも現実的に不可能。
一方で、子どもたちは三人とも幼児期は脱しつつあるので、一緒に過ごしている時間に、僕が本を読んでいても、それぞれに遊んでくれる状況になりつつある。

やはり、半身社会、読書にいいのかもしれない。
ただ、三宅さんの主張は、本を読むために半身社会にしようぜ、と言っている側面もあるが、読書を一種のバロメータとしてテーブルにおいて、「本も読めないくらい全身全霊な社会になってしまっていることについて一回立ち止まって考えよう」と言っている気もする。

ちなみに、子どもたちがもっと小さかった頃は、数年間、本は読めても、村上春樹(作家の中では一番好きで著作は全部持ってる)を読めない時期があったので、心に余裕がないと読書ができない、という主張も実感としてわかる。当時は、村上春樹の本を読んでしまうと、世界に没頭してしまい、村上春樹の世界に没頭している自分と、育児をしている自分が両立できるイメージが沸かなかったのだった。村上春樹にも本書は言及していて、「僕」「私」の物語、として紹介されており、これはたしかに子育てに向かない視点だ。今も、隣に子供がいたら読めない。

もう少しテクニカルな、本を読める理由

僕が半身に生きているかどうかは議論が分かれてしまう気がするので、もう少しテクニカルな部分も考えてみる。
こういうときは、インプット、プロセス、アウトプット、にわけて考えてみるといいことがある。

インプット

ここでいうインプットは、読む本をどう見つけるか。本をよく読む友人が周りに数人いる、というのは大きい。彼らが読んで面白かった、と言っている本は基本的に読む。著者の三宅さんも書いていたが、Xで、自分に合いそうな本をおすすめしてくれるアカウントをフォローするのもいい。
好きな本屋が近所にあるのも大事。
三鷹のuniteさんには、行くたびに数冊の本を買ってしまう。

そして、積読をおそれないこと。インプット(=本の供給)が過剰になっていなければ、次のプロセス(=読書)が細ってしまうのは必然。気になる本が机に積まれていないということは、供給がボトルネックになっている、ということなので、積読になっていることはちゃんと本が読める状態を作るための必要条件である。

プロセス

プロセス=読書そのもの。どうやって時間を確保するかが一番大事だと思うけど、三宅さんも書いているように、時間があったら本が読めるっていうんならこの本は存在していないので、実は、読書体験そのものは、あんまり重要じゃない気がする。
けど、fuzkueさんという、「本の読める店」は、本当によく本が読めるので、環境を整えることも大事なんだと思う。

アウトプット

本を読んでどうするのか?という話。読書の位置づけが、教養、娯楽、ノイズ、と変遷してきたわけだが、労働に代わって自己実現に直結する読書、というのは可能だろうか?
こうやって、読んだ本について感想を書く。友人がその感想についてコメントをくれる。けっこう嬉しい。
職場の上司に「最近おもしろい本読んだ?」と聞かれる。「三体がめちゃくちゃ面白くって」と答えて、会話が弾む。
別に仕事につながるような情報は得られないが、自分が思索を深めたいテーマについての本を読んで、いままでに自分になかったインサイトが得られて気持ちがいい。

そうやって、読書の先にあるものがみえてくると、読書がはかどる、ということはありそうだ。

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