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レンズの見ているものと私の見ているもの

だんだんと Nokton F1.5 50mm ASPH に馴れてきて、ボケと被写界深度なるものの効用が少しずつわかってきた。開放時には Nokton はたいへん薄くなってボケまくるわけだが、これを利用して「私の見ているもの」なるものとそうでないもの(その画においては背景)を明示的に区別することができるのである。いや、まぁ、教科書に載っていることなわけだが、私にもすこしその部分をコントロールできるようになってきた、というわけである。

もちろん、それは最終的には「私の見ているもの」ではなく、「レンズの見ているもの」に過ぎないわけだが、このギャップを上手に埋める、というのがオペレータである私の担当である。そして、この作業を上手にやることで、写真から私の見ているこの場所というもののニュアンスがよく出てくるようになるようだ、というわけだ。

たとえば、これは私の部屋の近くの七条大橋で、私が部屋から出ると、だいたいこのあたりにまずは来ることになるので(駅があるのだ)、ウォームアップとして数枚撮るわけだが、ちょっとずつよくなっている。まぁ、半分くらいは春の日差しと天気のせいだが。

同様にして、四条大橋の周辺もこれからもよく撮ることになるわけだが、これもすこしずつよくなる。もちろんこの場合の「良い」というのは、一般的にいって写真としてよく撮れているということではなく、私がそこにいたときの感覚に近い、という意味での良さだが。

そして重要なのは、これを撮っているときに、私は撮っている写真が以前よりも私好みだということにあまり気づいていないのである。だから、私はコントロールしようとはいちおうしているのだが、それがどのようにコントロールされているのか、よくわかっていない。ようするに、その部分というのは、レンズとカメラがやっているのである。私のしていることは、部屋に戻ってこうして写真を取り出してみて、あぁ、なるほど、と思いながら何枚かピックアップする、ということである。その場でやっていることといえば、結局、ピントのつまみを回すことと、フレームを調整すること、カメラを水平にしようとすることくらいである。

私の京都の印象というのは、最終的には寺社仏閣というよりは、この全体としてはだいぶヘタってきた低層で多くは今も木造の家屋たちが市街の中心を構成している町並みから成っている。東京にもそういった地区は下町を中心にあるわけだが、その多くは鉄筋構造に置き換わってしまっているし(コレ自体はだいたい正しいw)、用途も事務所用が多い。だが、京都というのは、伝統的に工芸等の工房も含めて、すべてこの町家なる形式の範囲で行うことになっているため、事務所即店舗というのがデファクトスタンダードなのである。そして、それがこの古くてくたびれた街に表情をつけている。

これとは別に、町家は表と内部でかなり表情が異なり、中に入ると見事な内庭や座敷があったりする点も楽しいわけだが、こうした外壁と内部の区分け自体は欧州でも一般的な構造であろうし、たんじゅんに中に入れてもらえないので、そうした豊かさのほとんどに私自身はアクセスすることができない。先週の西尾八ツ橋の里や先々週の茶寮宝泉のように、商用に改築されて開放されていれば別だが(ここら自体は穴場というか、資金を投じて最近整理されたかたちなので、往時の快適さが逆に一般向けに再現されている点で貴重な場所である)、こうした経路が接続されなければ、それは裕福な者たちの邸宅としてあるままか、散見するように取り壊す以外に方途のないまま朽ちていくことになる。私はよそ者だし、おそらく今後もよそ者にとどまるので、10年や20年のスパンで考えても、私がそうしたものたちに接続する機会というのはそうそう持てはしないだろう。

被写界深度とボケを意識することで、京都の町並みのこうした性質により焦点をあてることができるようになる(らしい)。京都はたしかに古都であり、まさにその古都たる部分こそが魅力なわけだが、その古都の性質というのは、何も寺やらなんやら、ということのほうばかりではないはずなのだ、というわけである。実際、街としての京都というのは、たいへんに汚らしく、外観を維持することに対して、長らくほとんど注意を払ってこなかった事実があると思うが(そして、それは今でも続いているわけだが)、このことが意味しているのは、京都人たちにとってそこは何よりもまず生活の場であったということなのである。寺社仏閣や遊郭たちというのは、ようするに都会人たちが外貨を稼ぐ手段、ブランディングのシンボルだったということなのだ。(まぁ、もちろん自分たちでも遊ぶわけなんだけれども)

そして、今の私は、こうした側面での古都としての京都に興味をいだいている。

こうした繁華街や寺社仏閣と住居や工業地区とがグラデーションしつつも融合しているのが京都である。

そうした古都としての京都の場景を構成する重要な要素が、空である。町並みはどうしてもコキタナイので、その反作用としての空というものに勢い視線が向くことになるのである。かくして、どうしても空を撮りがちになるし、実際、空は街の印象の数割を占めていると思う。それは田舎の空というのではなく、古の都の空の風情なのだ。

という、ポエムが書けるくらいには、だんだん操作に慣れてきましたよ、ということで。

残りの写真はビンテージレンズの出店が京都 Loft にきているので、ちょっと見てきた、というものです。結論としては、まぁ、どうやら Nokton には相当満足しているらしいな、ということになったかな、と思います。

試させていただいたかぎりでは、Zeiss Jena 80mm というのがもっとも印象がよかったけれども、そもそも 80mm がほしいのか、というお話があるな、ということで引き上げてきたのでした(けっこう高いし)。

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