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信州と津軽と宗像 妄想考察(後編)

津軽にあっては信州を思い、信州にあっては津軽を思うという奇妙な事態に陥っている。
結局、人間は、知らずのうちに、自分のルーツへと帰結していく旅しか出来ないということなのかもしれないな、とも思う。

岩木山神社・小栗山神社・大坊熊野神社もしくは猿賀神社には、三人の女神の競争と確執の伝承が伝わる。
誰が岩木山神社に住まうかの競争を行ない、先に辿り着いた妹が岩木山神社の祭神となり、姉二人はそれぞれ小栗山神社、大坊熊野神社もしくは猿賀神社に祀られることになったという。
当時の小栗山や大坊付近の人々が、岩木山神社に参詣しないことの理由として語られる物語伝承であるが、この津軽の三女神の言い伝えの元ネタも、だいぶ変容はしているものの、そもそもは宗像三女神にその原型があるのではないかと類推される。
思えば、津軽には密かに白蛇や龍神を祀っている社祠もまた、多いような気がしている。
そもそも、猿賀神社は、過去には神蛇宮と呼ばれていたという。
蝦夷征伐に来た上毛野田道将軍を蛇として祀るという社伝があるものの、もともとの信仰を裏で残そうとした降伏蝦夷たちの試行錯誤の結果であろうから、本来の由緒ではなかろうと思う。
猿賀神社の祀る蛇とは、女神であったであろうと考えるからである。
猿賀神社の境内には、鏡ヶ池という蓮池の中に、弁天宮とも呼ばれる胸肩神社が鎮座しているが、単純に猿賀神社と言えば、猿賀神社本殿の方よりも、この蓮池の中の胸肩神社のイメージを思い浮かべる人が多いだろうと思われる。
鏡ヶ池の胸肩神社と、猿賀石を祀る猿賀神社とは、もともと隣接する別の神社であって、縄文の信仰を引き継いだ、木の宮・石の宮の組み合わせだったのではないかと思えてしまう。
何らかの事情で、例えば、上毛野田道将軍の功績に神社の縁起を偽装するなどの事情で、祭神を隠蔽する必要があって、そのときに猿賀神社と胸肩神社は、ひとつにまとめられてしまったのかもしれない。
津軽では、宗像という漢字表記はどういうわけか敬遠され、胸肩という表記に置き換わっていることが多いのも、なにものかに対する配慮ででもあるのだろうかと邪推する。
蓮池のほとりには水天宮あかい堂があるが、ここに祀られている祭神は、高龗神・闇龗神とともにオカミ三神の一柱とされる、水波能売(ミズハメ)神であるという。
猿賀神社の鎮座する住所地・平川市猿賀字石林には、縄文遺跡などが発見されていて、その立て札を見ながら周辺を歩いていくと、朱色の眩しい鳥居が建っているのに遭遇する。
ひときわ大きな猿田彦大神の道祖神が目について、これこそが猿賀神社に本来祀られていたはずの、男性太陽神なのではあるまいかなどと、しばし興奮に駆られてしまう。
ただ、並べて建てられているのは庚申塔の類いなので、猿田彦大神の道祖神も、庚申講の際に建てられたもので、時代としてもかなり若いものであろう。
さすがにこの道祖神を、古代から続く猿田彦信仰が根強く残っていることの証ではあるまいかなどと、力説するには飛躍がありすぎるようだ。
さて、鏡ヶ池の周辺には、宗像三女神や龗三神と数字を揃えてのことなのか、三体の蛇の木彫りの像がこっそりと飾られている。
それはもう、こっそりと飾られているので、何も知らない状態で、その蛇の像を視界に捉えたときには、思わずはっと息を呑むくらいだ。
二体の蛇が飾られているのは、あかい堂の屋根の下、そして、もう一体の蛇が飾られているのは、鏡ヶ池の中に鎮座する胸肩神社の社殿を、さらに背後に回り込んでの軒下である。
ほかには、乳井神社の金龍祠、清水観音の龍神祠など、境内の隅の方にこっそりと、龍神の祠を持つ社寺の存在も特徴的だ。
弘前市には、弘前弁天宮と呼ばれることの多い胸肩神社が存在しているが、この神社もまた白蛇を祀る神社であり、ここでは、美しい湧水が、手水舎としてではなく御神体として祀られている。
弘前弁天宮は、白蛇を祀る神社としては、あまり隠すことに熱心ではないようで、夏祭りである土手町の宵宮(よみや)によって多くの人を集めている。

猿賀神社 鏡ヶ池の胸肩神社
猿賀神社 猿田彦大神の道祖神
清水観音 龍神祠
弘前弁天宮胸肩神社 湧水

宗像三女神の一柱である湍津姫(タギツヒメ)とは、津軽の伝承における多都比姫(タツビヒメ)である。
瀬織津姫、宗像女神、湍津姫、多都比姫、ひとつひとつは、まったく遠くに感じられていた名称も、気が付けば一本の線で結びついている。
北九州の宗像族は、日本海を辿って、出雲や高志、安曇や諏訪、そして遠く津軽の地まで、交易ルートを広げていたのかもしれない。
日本海に張り巡らされていた縄文の交易ルートを、ひとつにまとめあげて統一することが出来れば、それも可能であったと思われる。
古代の津軽には、北斗七星信仰があったとされる。
大星神社・浪岡八幡宮・猿賀神社・熊野奥照神社・岩木山神社・鹿嶋神社・乳井神社という、津軽地方の七つの社が、北斗七星の星の並びに配置されているためである。
蝦夷征討の際にも当地には訪れることのなかった征夷大将軍・坂上田村麻呂によって、そのように配置されたと伝えられているけれども、中央権力におもねるように見せて、面従腹背、裏ではもともとの信仰を残そうとしていた蝦夷たちの心情を考えれば、坂上田村麻呂の伝承の伝わっているものほど、東北では胡散臭い。
海の民のスターナビゲーションとしての北斗七星信仰と考えあわせることが出来るのであれば、それをもたらしたものは宗像族であっただろうか。
岩木山神社には、太陽信仰と白蛇龍神信仰と北斗七星信仰とが人知れず絡まりあい、岩木山神社の祭神の一柱は、海の民・宗像族の祀っていた女神である。
津軽の北斗七星信仰の存在もまた、宗像族によってもたらされたものであるとすれば、信州に残る北斗七星信仰や、宗像の織姫信仰とも同質のものであったのかもしれない。

猿賀神社 胸肩神社の御神橋

わたしの目に空想として見えているものは、縄文時代の交易ルートをベースにして誕生した、弥生時代の環日本海文化圏の存在である。
縄文時代の日本海は、黒耀石、ヒスイ、アスファルト、漆、たたら鉄などの交易によって、長い歳月をかけて拓かれていったであろうか。
長い歳月のあいだには、利器としての黒耀石は、やがて、たたら鉄に置き代えられていったものであろう。
あまり重要視されてはいないものの、岩木山北麓には、鯵ヶ沢町の杢沢たたら場遺跡が発掘されるなど、製鉄遺跡や製鉄伝承が数多く残されている。
岩木山北麓には、縄文時代には大森勝山環状列石などの祭祀遺跡があったけれども、亀ヶ岡の土地からはやや距離もあり、中心地的な賑わいではなかったと思われる。
ところが、弥生時代になると、この岩木山北麓一帯には、唐突に、製鉄用の施設が作られていくようになる。
冬に地吹雪という現象を引き起こす、津軽西浜の猛烈な海風が、岩木山北麓に叩きつけて、たたら製鉄に必要な風の力が得られやすかったからであろうか。
岩木山神社の祭神の中には、大物主神の名前もあるので、出雲の製鉄集団の移住といったものも考えられるかもしれない。
鬼沢地区にある鬼神社は、津軽では、大人(おおひと)などと呼ばれることのある、鬼を祀る神社であるが、本殿に、鬼が灌漑の際に使用したとされる鉄製農具が奉納されている。
十腰内地区の地名伝承に、十腰分(十振り)あるはずの鉄剣が一腰分なくなっていたために、龍神が「十腰ない」と呟いた土地であるというものがあって、真偽のほどはともかくとして、このあたりの人々の、製鉄についてのこだわりが感じられる説話であろうかと思う。

鬼神社 奉納農具

はたして、鉄をもたらした鬼とは、宗像族のことであっただろうか。
稲作の文化もまた、この交易ルートに乗って、いちはやく津軽の地まで運ばれたものであろう。
宗像族によって、稲作は、田舎館村の垂柳遺跡などで一度実験的に導入されたものの、不作で根付かず水田は放棄され、その入植は、製鉄業のみに特化されていったものだろうか。
北東北における続縄文文化と弥生文化との不分明な混在は、宗像族によって先行してもたらされた稲作によって形成されたものであるのかもしれない。
物部や出雲の背後には、「宗像」が見え隠れしている。
閉じられた領域としての「国」を造ろうとする大和勢力と、開かれた大海に繰り出すがために「国という概念」を持たない宗像族とのせめぎあい、
その緩衝地帯となっていたものが、物部や出雲や安曇だったのかもしれないと考える。
宗像や物部や出雲を定義しなおさなければ、諏訪も津軽も見えて来ないように思われてくる。
饒速日命も、大物主神も、宗像の女神との関りが深く、しかも、両者において、そのことが、あまり表沙汰にはされていないという不自然さが存在している。
出雲や物部の背後にあって、巧妙に消されて封印されているものが、「宗像」であるのかもしれない。




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