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信州と津軽と宗像 妄想考察(前編)

津軽の地を離れ、信州・諏訪に憧るままにやってきて気づかされたことは、津軽と諏訪とが、実は同じ軸線上にあったのではないかということである。
諏訪大社の御柱と、三内丸山遺跡の掘立柱が似ているという、ありがちな話題とはちょっと違う方向性の話となっていくようです。
タイトルこそまったく別のタイトルを付けてはいるものの、話としては、前段の「諏訪考」から引き続いての内容となっているのでご了解ください。

諏訪信仰圏とされる小県・上田あたりの習俗を見ていると、津軽でよく見た光景を思い起こさずにはいられなくなる。
上田市の別所温泉にて行われる雨乞いの習俗に、岳の幟というものがあるのだが、この幟の行列を見ていると、岩木山神社で行なわれていたお山参詣の光景が重なってくるのだ。
お山参詣は、朔日山の御来光を目指して岩木山に登る行事であるが、長大な幟を押し立てて練り歩くその様子は、別所神社に伝わる岳の幟の姿と似ているように思う。
岳の幟が、龍神・高龗神への雨乞いの祈願であるのに対して、お山参詣は、太陽崇拝の方であるように思えるが、お山参詣の起源自体が定かではないため、実は、岳の幟と同じように雨乞いにその起源がある可能性も残されているようだ。
なぜならば、岩木山という山に祀られている祭神の中に、間違いなく龍の女神の存在があるからである。


津軽に住んでいると、津軽平野に広大な裾野を広げる独立峰・岩木山の姿は格別の景観であり、朝に夕にこの山を眺めるとき、心安らぐ気分ともなる。
岩木山という山は、北から見るか南からみるかで、その山容はがらりと異なり、中津軽郡・南津軽郡側から見たときには丸みを帯びた優美な姿、北津軽郡・西津軽郡側から見たときには龍の背ビレを思わせるような峻険な姿となる。
現代では、弘前市のある南麓側の方が中心地として栄えているものの、古代の津軽にでは、岩木山の北麓側の方に文化の中心があったように思われる。
北麓側を代表するものは、亀ヶ岡などの縄文時代遺跡、弥生時代の製鉄遺跡、中世の安東水軍の痕跡、南麓側を代表するものは、岩木山(いわきやま)神社、大浦津軽氏の活動跡、弘前藩時代の遺構などである。
青森市などの東津軽郡からは岩木山はかすかに見えるくらいで、魂の山という表現は似つかわしくないものの、それでも視界の中に岩木山をとらえることは出来る。
「高台に登ったときに、岩木山が見える範囲までを津軽と呼ぶのだ」という俗説までも存在しているのであるから、それだけ生粋の津軽人にとっては魂の山であるということだ。
さて、その岩木山の南麓側に鎮座している岩木山神社であるが、岩木山神社はその祭神の一柱に、多都比姫(タツビヒメ)という女神を祀っている。

岩木山 あえて市街地からの景観

岩木山神社は、津軽一の宮として、一円の人々が、人生の節目節目で訪れる機会のもっとも多いであろう神社である。
TVのご当地ミステリーにも必ずと言っていいほど登場し、個人的な話題となるものの、かつてのミステリーの帝王・船越英一郎氏が、赤い欄干の御神橋のあたりで、犯人の検討をつけているかのような場面の撮影に遭遇したこともあった。
そんな御神橋のあるメインの参道から外れたところに、一般参拝者の目を避けるかのように、白雲大龍神を祀る祠がある。
この白雲大龍神とは白い蛇の神であり、蛇の好物である卵を供えると御利益があると、昔から言い伝えられているようだ。
実際、細い参道には、白雲大龍神の幟が並べ立てられ、神池には、卵と思しき白い塊が沈められているのが見える。
岩木山神社の境内の隅の方に追いやられて、龍の化身・白蛇を祀る白雲神社が、息をひそめるかのようにひっそりと鎮座しているとは、なんとも象徴的でもある。
この白雲神社に祀られている白蛇とされる祭神が、多都比姫(タツビヒメ)ということであり、多都比姫とは、宗像三女神の一柱・多岐都比売(湍津姫・タギツヒメ)の別名であるというのだ。
多岐都比売(タギツヒメ)と多都比姫(タツビヒメ)、漢字の並び的にも、絶妙なずれ感覚であるように思う。
宗像の湍津姫こそは、全国的にも、龍の女神、白蛇、瀬織津姫と同一視される存在であり、岩木山神社は、宗像の女神を祀る神社でもあるのである。
ご当地である津軽の人たちはあまり深く考えてはいない様子であるが、津軽からは遠く離れた九州・宗像の土地の女神を、津軽を代表する信仰の山・岩木山が、主たる祭神として祀っているということは、そもそも違和感以外の何ものでもない。
わたし自身、秋田から移り住んだあたりには少し違和感に思っていたものの、津軽に暮らすうちにその違和感は、いつしか霧のように消えてなくなってしまっていた。

岩木山神社 社殿よりも御神体山
岩木山神社 白雲神社へ
岩木山神社 白雲神社、神池の卵

津軽半島の西側に、十三湖という汽水湖がある。
十三湖は、岩木川が日本海へ流れ込む水戸口ともなっていて、津軽平野を潤してきた岩木川の水が、海に注ぎ込む前にこの湖に停泊して、しばし名残を惜しんでいるようでもある。
岩木川が津軽平野の各所から集めてきた人々の穢れを、海に注ぎ込む前に、ここに一度ため込んで、浄化してくれているものであろうか。
薄膜を張るかのように涼やかに水をたたえ込み、静かなさざ波を立てているその湖面は、津軽平野の悲喜こもごもを投影してなお、安らぎを与えてくれるようだ。
鎌倉時代には安東氏がここを拠点に独自に大陸などと海上交易を行なっていて、十三湊遺跡からは宋銭や大陸製の陶磁器片などが発掘されている。
この十三湖と、遮光器土偶の出土した亀ヶ岡遺跡の間あたりに、田光(タッピ)沼というところがあって、ここに龍女・多都比姫が棲んでいたという。
古代十三湖は、亀ヶ岡縄文遺跡のあたりまで、その水面を広げていたと言われているが、今の田光沼(タッピヌマ)は、古代十三湖の一部であった。
多都比姫は、この田光沼から来て岩木山に鎮座したという。
古代十三湖からいつごろ岩木山へと移ったのか、その時代は定かではないが、このあたりの縄文の遺物の多さから、多都比姫は、縄文残照の姫だったのかもしれないと思う。
タッピヌマ(田光沼)という呼び名からも類推できるように、多都比姫の「タツビ」とは、龍飛(タッピ)に通じているものであろう。
多都比姫とは、本来、龍飛姫と呼ばれていたものかもしれない。
姫川を遡上して上高地に辿り着いた安曇族と同じように、多都比姫もまた、古代十三湖に流れ込む岩木川の流れを辿って、岩木山の麓・暗門の滝あたりまで遡上したのであろうか。
岩木川の上流、暗門の滝の手前の西目屋村のあたりには、龍神祠のある清水観音や、乳穂ヶ滝不動などの滝を祀る祠が点在している。
岩木山神社には、顕國魂神という名称で大国主神が祀られているので、白雲神社の多都比姫こと湍津姫の存在と考えあわせれば、夫婦神として並べて祀られているのだと見えなくもない。
考えてみれば、「岩木山」という名称そのものが、木の宮・石(岩)の宮の象徴としての暗号だっただろうかとさえ思えてしまうのである。

十三湖 海とは異なるきらめき
龍飛崎 最果てに沈む日没


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