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信濃村上氏にまつわるダーティーな魅力がおもしろい。その②

信州と言う土地はなかなかに広大で、さらに、各盆地が山々によって遮られているために、統一された勢力が生まれにくい土地柄である。
中南信に地盤を持つ小笠原氏もまた、信濃守護職とは言えども、東北信に独立した勢力を築く村上氏などの国人たちを、守護権力のもとに従わせることは出来ていなかった。
そんな折り、都育ちの婆娑羅者と言われる小笠原長秀が、実質的な信濃一国支配を目論み、意気揚々と信州に乗り込んできた。
小笠原長秀は、信州の鄙人など、将軍と守護の権威の前に簡単にひれ伏すだろうと、威勢よく乗り込んできたものと思われるが、ことはそう簡単ではなかったのである。
源義仲や北条時行、宗良親王などの貴種たちを時には支え、時には対立さえしてきた信州の国人衆たちは、山深い環境に孤立しているように見えて、決して、中央権力に擦れていない鄙人などではなかったと思われる。
ましてや、浄土仏教最古級の古刹・善光寺、戸隠・飯縄・小菅などの修験道場、諏訪信仰の大元・諏訪大社を有する信州には、現世の中央権力に対抗しうる思想性もまた豊富にあった。
信州の事情や気風を知らなかったであろう小笠原長秀は、実質的な支配権力を浸透させようと、東北信に自立していた国人衆の年貢徴収などにも、露骨に介入し始めるようになる。
信濃守護・小笠原長秀への抵抗の運動は、善光寺のお膝元でもある川中島周辺から始まった。
井上氏、須田氏、笠原氏、信濃島津氏、栗田氏、仁科氏など、犀川・千曲川流域の国人たちは大文字一揆を結成し、村上満信がその盟主的な存在として収まることになった。
大文字一揆には、かつての南朝方の諏訪神党・祢津氏や香坂氏などが加わっていたから、ここにおいて、村上氏は諏訪神党と共闘関係になったとも言えよう。


千曲川西岸の村上から、東岸の坂木(坂城)に拠点を移したという村上氏は、この頃にはすでに葛尾城などを整備していたであろうか。
葛尾城に登ってみると、その鬱蒼とした山寨ぶりが、アウトローたちの隠れ潜む賊地のようなものを想起させてくれる。
葛尾城は、戦国期の城郭として見ればとてもお粗末なものであり、中世期の逃げ込みの山城・脱出のための使い捨ての山城であったと思われる。
あまりの険しさゆえに攻めることは難儀であるが、同時に、その険しさゆえに籠城することも想定されていない山城である。
痩せ尾根の張り巡らされた山城であり、敵方に攻め込まれたときに逃げ込み、山岳ゲリラ戦を戦い、いざとなれば尾根伝いに戦場を離脱できるような山城であった。
南北朝の動乱では、北朝方に組みしたので悪党と呼ばれることはなかったものの、村上氏は、案外、悪党・山賊のようなところからスタートしていたのかもしれないと思えてくる。
そして、山城の過酷な環境に育まれる形で、信濃村上一族は、精強な武人となっていったように思う。
大文字一揆勢力は、村上氏や諏訪神党・祢津氏の力添えもあって、小笠原長秀を大塔合戦によって打ち破ることに成功する。
この大塔合戦には、後年の村上氏にとって宿敵とも言える真田氏の名が、祢津氏麾下の国人・実田氏として見えていてとても興味深いのであるが、
後年の川中島合戦の地に村上氏と真田氏とが揃って轡を並べて戦った合戦と表現すれば、この感慨深さが伝わるであろうか。
その川中島において戦われた大塔合戦によって、守護・小笠原氏は敗北し、長秀は、同族ながら中立を決め込んだ大井光矩に、和睦の仲介を頼むことになった。
この大塔合戦をして、信州人によって戦われた本当の意味での川中島合戦と見做す方もいるようである。
かくして、信濃村上氏と東北信の国人諸侯は、半独立の状態を維持したまま、戦国の黎明期を迎えることとなっていく。


関東における戦国時代は、応仁文明の大乱にさきがける形で、鎌倉公方をめぐる争乱によって幕を開けたと言えるだろう。
この時代のキープレイヤーは、良くも悪くも鎌倉公方・足利持氏という人物であった。
前関東管領と持氏の対立に端を発する上杉禅秀の乱、持氏と幕府との対立による永享の乱、持氏の遺児を担ぐ結城氏を幕府が鎮圧した結城合戦、
そして、将軍・足利義教が嘉吉の乱によって暗殺され、持氏の遺児・成氏が鎌倉公方を継ぐと、山内・扇谷の両上杉氏との対立である享徳の乱へと発展していった。
幕府の東国支配の分立機関とも言うべき鎌倉府は、頂点に鎌倉公方を頂いているものの、それを補佐する関東管領職は幕府が直接に任命することになっていたから、鎌倉公方と関東管領の対立の図式は潜在的に準備されていたものと言える。
幕府から任命された関東管領と対立する鎌倉公方が存在していたのと同じ図式で、信州には、幕府から任命された信濃守護・小笠原氏に対抗する村上氏の存在があったから、村上氏は、必然的に鎌倉公方・足利持氏に接近していった。
持氏派として村上頼清の名が伝わっているものの、その事績はあまり明確にはなっていない。
足利持氏が滅ぼされるに及んで、持氏派として活動していた村上氏に関しての確実な資料は見受けられないようになり、その系図についても混乱が見られるようになる。
村上氏の内部で、ある種の内訌のようなものが発生していた可能性もあるという。
一方で、小笠原政康という人物は、大塔合戦に敗れて信濃国を脱出した兄・長秀の失策を挽回するために、関東の争乱に臨んでいた。
その関東での軍功により兄・長秀が解任された信濃守護の座に、一代で返り咲いている。
結城合戦には信濃諸侯を従える形で幕府方として従軍し、兄・長秀が成し得なかった信濃一国支配を、名目的にせよ成し遂げた人物となった。
小笠原政康の没後は、小笠原氏にも内訌が見られ三分裂していくものの、政康の時代は、小笠原氏にとって信濃一国を支配下に置いた輝かしい唯一の時期となったとも言えよう。
また、小笠原支族の守護代・大井氏は、先の大塔合戦でも中立を維持したように、この時代にも独自の動きを見せている。
大井持光は、鎌倉公方・持氏の遺児を密かに匿い、のちにその遺児が鎌倉公方・足利成氏(のちの古河公方)として呼び戻されるに及んで、佐久から西上野までの強勢を誇った。
大井氏は、古河公方の衰退と、村上氏・武田氏の伸長、そして浅間山の噴火などが相まって滅亡することになるが、戦国期、浅間山は、大井氏と武田氏の滅亡に重なるようにして噴火している。
浅間山の存在を抜きにしては、上州・信州・甲州の歴史は語れないように思う。

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