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信州以外にはあまり知られていない建御名方神の痕跡③善光寺平

【善光寺平】
越後から信州に入るルートとしては、中越から千曲川を遡上して、飯山・中野方面へと至るルートも活発に利用されていたのかもしれない。善光寺平の北側、犀川と千曲川が合流し、越後へ向かって大きく水量を整えたあたり、今の長野市豊野町のあたりには、その名も伊豆毛神社が鎮座している。
千曲川の水量の増加するこのあたり一帯は、千曲川の氾濫被害も古来多く、近年の令和元年台風19号でも堤防の決壊があった地域でもある。
偶然通りかかって目にしたときには、まさかこれで「いずも」なんて読ませるんじゃないだろうなと、にやにやしながら通り過ぎたものであるが、どうやらそのまま「いずも」と読むのが正式らしく、このあたり一帯への出雲勢力の影響を想起させられる。
 

信州にやってきた建御名方神は、北信の水内郡にて追手・建御雷(たけみかづち)神と交戦したようである。交戦場所については戸隠を含めて諸説あるらしいけれども、現在の、善光寺の鎮座する城山あたりが、一番ドラマ性に富んでいるかと思う。
善光寺は、来る者こばまずの浄土教寺院であるが、その本質は砦である。
中世には横山城という城郭が、善光寺の伽藍を含む形で存在していた。
ゆるやかに登り続ける善光寺参道を歩いて、仁王門から仲見世通り、そして山門から本堂へ。一般の観光客ならば、ここで満足するであろうけれども、もうひと息、善光寺の背後へ回り込めば、一味違った景色が見えてくる。
立ち並ぶさまざまな施設、城山公園や東山魁夷美術館、城山動物園の存在によって気が付かなくなっているけれども、善光寺本堂を抜けて東側は絶壁なのだ。
信心深いお爺ちゃんお婆ちゃんには申し訳ないと思いながらも、ここは確かに、後ろ堅固の山城である。川中島合戦の折りに、上杉謙信が善光寺を本陣として用いていたと伝わるが、それは、信仰とはまた別の次元で、善光寺が城砦として優れていたということにほかならない。
そして、善光寺本堂とは目と鼻の距離、横山城の本丸のあった跡地には、建御名方富命彦神別神社が、まるでいわくありげに建っている。
この建御名方富命彦神別神社には、近隣の湯福神社・武井神社・妻科神社の善光寺三鎮守との、四社持ち回りによって善光寺御柱祭を営んできたという云われがある。よくよく考えてみれば、浄土思想を主体とし、天台宗と浄土教によって運営・管理されている善光寺が、諏訪信仰の影響下にあるということに驚かされる。諏訪明神は、善光寺さえも、その御柱の結界によって守ろうとしているのであろうか。
 

善光寺三鎮守のうちで、おもしろい社伝を持っているのが、妻科神社である。水内の地で激化していく建御雷神との戦闘を避けて、建御名方神の妻・八坂刀売神が避難したとされるところが、この妻科神社である。
妻科神社のすぐ近くには、犀川・千曲川に合流する前の裾花川が流れていて、対岸には、裾花凝灰岩の特徴的な真っ白い断崖が目の前にそびえている。付近の水は冷たく清らかに見えるが、丘陵上の傾斜の強い場所にあるため、側溝を流れる水の勢いはとても激しい。
水煙か川霧に包まれるかの風情があって、御師の町で感じるような、水をたたえこんだ空気感を持つ社殿である。八坂刀売神は、この川霧の中に身を隠すように潜んだということであったろうか。
この裾花川を遡上して鬼無里に出れば、安曇野まではあともうわずかという距離である。
妻科神社から、八坂刀売神はどこへ向かったのか、その動向を示すものは見つけられない。その後、建御名方神と合流し、ともに東信・塩田平へと向かったのか。鬼無里を越えて一時、中信・安曇平へと向かったのだろうか。安曇平には、すでに兄にあたる穂高見命は降臨していたであろうか。
犀川と千曲川において、双方が呼応して事が運んでいたとしたら、これほどドラマ性に富んだストーリーもないものである。
 

建御雷神との戦いの果てに、建御名方神は、善光寺・横山城を守り通せたのか、放棄して南へ落ち延びたのか、結末は定かではない。戦いの勝敗はわからないながら、その足跡は、長野市南部へと場所を移す。
おおまかに言って長野市は、犀川の北側に広がる善光寺門前、犀川と千曲川の流れに挟まれている川中島、千曲川の南側に区切られている松代地域となっている。
善光寺平(長野市)は、西から流れてきた犀川の水によって、北と南に分割される。南の方からは千曲川が流れ込み、南西から北東の方向に山地のへりを縁取るようにして、長野市の南の輪郭を描き出す。
その千曲川の描き出す輪郭の一部に、山地がやや南に陥入して見えるところがあって、そこが次なる痕跡の舞台、長野市松代の町である。建御名方神の軍勢は、千曲川を自然の境界とするこの松代地域に陣取って、抵抗の構えを見せたであろうか。
この土地に居座って善光寺平を睨みつけた人物は、歴史上にもうひとり存在している。それが、川中島合戦のもう片方の主役・武田信玄である。
かたや、善光寺を砦として陣を張った上杉謙信。かたや松代の地に海津城を築き、陣を張った武田信玄。善光寺・横山城と、松代・海津城と書けば、川中島合戦そのままといった様相であるが、戦国時代に限ることなく、古来よりこの地域は幾度にもわたって、戦乱の趨勢を占うような決戦の舞台となってきていた。
源平の戦いにおける横田河原合戦、南北朝動乱における大塔合戦など、時代時代の主要な合戦がここ川中島で戦われていて、この土地が、岐阜県の関ヶ原のような、戦略上重要な地形だったことがうかがい知れる。建御名方神と建御雷神の両雄も、川中島を境にして、善光寺と松代で睨みあっていたであろうか。
長野市松代町に、皆神山という象徴的な山がそびえているが、オカルトの世界では、日本のピラミッドとも、宇宙人のUFO基地とも言われている、なんとも個性的な山だ。この皆神山の山頂に、建御名方神の次男と伝わる御子神・出早雄(いずはやお)命を祀る、熊野出速雄神社(皆神神社)が鎮座している。出早雄命は、松代の開拓神として、この皆神神社に祀られていることから、建御雷神の勢力は、実際、この地で食い止められたものかもしれない。
しばらくは出早雄命が国造りを行なう開拓神としてとどまったのかもしれないが、本格的な諏訪入り後には、この地は放棄されたものであろうか。やがて松代のあたりが渡来人たちの入植の土地となっていくことは、後年の古墳の様式が物語っている。

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