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ざっくり信州中世史②

南北朝が合一すると、信州は、諏訪神党と小笠原氏の二項対立の時代から、信濃村上氏の不穏な動きにより、次の時代へと移っていく。
源平の争乱期には、村上信国が、はじめ木曽方として従軍し、京にあっては後白河院に鞍替え、最終的には、頼朝・義経に加勢するといった複雑な動きをしていた。
南北朝時代には、兄・村上義日(よしてる)が南朝方・護良親王とともに戦って忠義を尽くしたとされるが、一方で、弟・村上信貞は足利尊氏に加勢、信濃惣大将という肩書きを頂戴して、信濃守護・小笠原氏と共闘する動きを見せた。
信濃村上氏の、一筋縄ではいかない存在感が、各時代に見受けられるように思う。
そんな信濃村上氏の、反骨の性格のようなものが影響したであろうか、小笠原氏優勢となった状況下においては、村上氏は、小笠原氏に牙を剥くことになる。
婆娑羅者であったという小笠原長秀は、生まれ育った京都を離れ、鄙人の信州人をまとめあげようとして、意気揚々と信濃入りした。
守護権力を濫用するかのように振る舞う小笠原長秀に対して、信州の鄙人、とりわけ東北信の国人衆は反感を抱き、ついには大文字一揆を結成して軍事的に対抗するようになる。
大文字一揆を主張する「大」の字の旗のもとに、東北信の国人たちは団結し、村上満信が、反小笠原氏の急先鋒として、大文字一揆勢力の旗頭となった。
これまで小笠原氏とは共闘関係のような立場にあった村上氏であったものの、ここに至って、諏訪神党・滋野三氏の属する勢力の側につき、小笠原氏とは袂を分かつことになる。
両勢力は北信の川中島地域で激突し、大塔合戦によって小笠原勢は蹴散らされてしまうこととなった。
東信を流れてきた千曲川と中信を流れてきた犀川が合流する北信の川中島周辺は、争乱の歴史が繰り返されるたびに、その決戦の舞台となってきた重要な地域となる。
ひとつには、源平期、越後の城氏に率いられて乗り込んできた平家方と、源義仲のもとに集った木曽方との間で戦われた、横田河原の戦い。
ふたつには、南北朝期、国司を担ぐ信濃守護・小笠原氏と、それに抵抗する四宮氏・保科氏ら諏訪神党との間で戦われた、青沼合戦。
最後が、戦国時代、信濃を制圧しつつ北上する武田信玄と、東北信諸侯の要請に応じて出馬した上杉謙信との間で戦われた、いわゆる川中島の戦い。
そしてもうひとつ、南北朝と戦国時代の狭間に隠されて、三番目の川中島の戦いがあった。
それが、中南信から守護権力を伸長させようとする小笠原氏と、それを跳ねのけようとする東北信諸侯が結成した大文字一揆との間で戦われた、大塔合戦であった。
この大塔合戦は、滋野三氏・祢津氏の配下として、実田(真田)の名が見えることで、文献上の真田氏の初出とも言われている合戦でもある。
大塔合戦では、大文字一揆側が小笠原氏を跳ね返してしまったので、小笠原氏は、信濃守護として信濃全域に影響力を及ぼすことは出来なくなってしまった。
小笠原長秀は、同族であった佐久の大井光矩の仲介をもって大文字一揆側と和睦したが、次の時代に要となっていくのが、その大井氏の存在である。
大井光矩は、大塔合戦では中立を保つなど冷静な状況分析をもって混乱に対処し、混迷を極める信州において重きをなして大井氏の存在感を高めたが、
次代、光矩の子・持光は更なる深謀遠慮で大井氏の繁栄をもたらすこととなった。


小笠原氏は信濃守護職ではあったものの、信濃国内には、信濃府中(松本)から南信の伊那谷を抑える程度の影響力しか持てなかったため、有力国人たちの自立性・割拠性が高かった信州の地は、早い段階から戦国の様相を呈していただろうと思われる。
南信の中でも諏訪地域は、諏訪氏と金刺氏の勢力圏であったし、北信には村上氏や高梨氏・井上氏・栗田氏などが鎬を削り、東信には、諏訪氏を盟主と仰ぐ諏訪神党の滋野三氏と、小笠原氏の支族である大井氏が割拠していた。
特に、信濃守護・小笠原氏と同族である大井氏は、守護代という立場でもあった。
信州を管轄する統治主体がころころと移り変わり、室町幕府と鎌倉府のあいだを揺れ動いたことも、この地域の安定性を脅かすことに一役買っていた。
村上氏や滋野三氏は、鎌倉府の公方・足利持氏を後ろ楯として、幕府側に立つ信濃守護・小笠原氏と対立するようになる。
大塔合戦を招いた信州統治の失敗により、小笠原長秀は信濃守護を罷免されるに至ったものの、長秀の弟・政康の代になって、小笠原氏は再び信濃守護の座に返り咲く。
小笠原政康は、上杉禅秀の乱の功績により信濃守護に補任されると、その後も、永享の乱、結城合戦など、度重なる関東の争乱において幕府軍の主力として戦っている。
隣国甲斐の守護・武田信満は、上杉禅秀に味方して鎌倉府の追討に合い、のちの武田勝頼に先立つ形で天目山(木賊山)において自刃したという武田家の当主であるが、小笠原政康という人物は、その武田信満の後継を巡る甲斐国内の内紛への介入を命じられるほど、四代将軍義持、そして六代将軍義教から特に信頼されていたようである。
そんな小笠原政康と対立していた村上頼清は、それに対抗しうる手段として、鎌倉公方・足利持氏の力を頼んだ。
小笠原政康と村上頼清の対立に対し、村上氏支持の立場から介入を目論む鎌倉公方・足利持氏と、それに意を唱える関東管領・山内上杉憲実との不協和音は、鎌倉公方・持氏が永享の乱を引き起こすきっかけのひとつとなったという。
永享の乱において、鎌倉公方・持氏が幕府軍に敗北すると、信州の持氏派諸勢力はその拠って立つところを失い、村上氏などの持氏派は、面従腹背と言えなくもないであろうが、信濃守護・小笠原氏のもとに臣従することになる。
ここにおいて、ようやく信濃守護の肩書きを名乗ってきた小笠原氏は、信州をまがりなりにでも統一することとなったと言える。


その後の関東の争乱に対しては、信州諸勢力は足並みを揃える形で、幕府方として参陣した。
足利持氏の遺児・春王丸と安王丸を擁立して戦われた結城合戦では、信濃衆は、信濃守護・小笠原政康に率いられる形で幕府方として従軍し、結城氏朝と戦っている。
ただし、これまでの経緯を考慮されたものであろうか、村上氏や滋野三氏は、小笠原氏とは別の大名の配下について戦ったようだ。
結城氏朝を攻め滅ぼして勢いを増す将軍・足利義教は、春王丸と安王丸のふたりを許すことなく殺害の命令を下す。
持氏の嫡男である義久は、これよりも前、永享の乱において討死していたから、争乱の火種となった鎌倉公方・持氏の遺児は一掃されたかのように思えたであろう。
ところが、小笠原氏の支族であったはずの大井持光が、鎌倉公方・足利持氏のもうひとりの遺児・万寿王丸(もしくは永寿王丸)を密かに匿っていた。
この遺児こそが、後年の鎌倉公方(古河公方)・足利成氏であったから、大井持光の行動はまさに「奇貨置くべし」を地で行くものであった。
成氏の公方復帰後には、大井氏は西上野までを影響下に収める勢力にまで発展し、村上氏や甲斐武田氏の攻撃にさらされ滅ぼされるまでは、この地域の巨星として君臨し続ける。
少し前までは、足利成氏は、その勢力の弱小さゆえに鎌倉を追われ、古河という辺境の地に追い詰められたのだろうと思っていたものであるが、改めて地図をよく見ていると、思いのほか古河という土地が関東のど真ん中にあることに驚く。
古河公方と言えば、後北条氏によってあしらわれたイメージがあまりに強すぎ、幾分軽視してしまいがちではあるものの、もう少ししっかり捉え直さなければいけない存在のように思える。
鎌倉という土地に押し込められているよりは、古河という土地に出張っている方が、遥かに強勢であるかのように思えてくるのであるが、地図上のトリックに過ぎないのであろうか。
足利成氏は、山内上杉・扇谷上杉の両上杉氏と対立し、三十年近くに及ぶ享徳の乱によって、関東は全国にさきがけて戦国時代に突入していくことになる。
古河公方・足利成氏の存在が、関東を一足早い戦国時代に突入させたと言われるが、その意味では、信州もまた、一足早い戦国時代に突入していたとも言えるのではなかろうか。


戦国時代の幕が上がると、諏訪氏サイド・小笠原氏サイド、双方に内訌が見られるようになり、信州は更なる混沌の時代を迎えることになる。
上社の諏訪氏と、下社の金刺氏、そして諏訪惣領家を窺う高遠氏の対立があり、諏訪神党の一枚岩は怪しいものとなってきていた。
塩尻峠を挟んで南北に領土を持っていた小笠原氏は、潜在的に分裂の可能性を孕んでいたが、敵対する勢力がなくなるに及んで分裂の内訌が起きた。
政康の没後まもなく、小笠原氏は三つの勢力に分裂して抗争し、小笠原氏が信濃全域に影響力を持っていた時期も、そう長くは続かなかったのである。
塩尻峠を挟んで府中小笠原氏と伊那小笠原氏の分裂があり、さらに伊那小笠原氏は、天竜川を挟んで松尾小笠原氏と鈴岡小笠原氏に分裂した。
そんな折りに、信州は、最大の外敵を迎えることになる。
これまでは、諏訪神党と信濃守護小笠原氏、そしてその間を巧みに泳ぐ村上氏の存在があり、一方が一方を圧倒するといったことがなかった信州であったが、その信州の絶妙なる均衡を、甲斐国からの武田氏の介入が一気に突き崩してしまったのである。
諏訪氏と村上氏は、外来勢力の武田信虎と結んで、滋野三氏を攻め、その一角である海野氏を滅ぼしてしまうに至る。
戦国大名化してしまった諏訪氏は、こともあろうに、これまで長きに渡って自らを支え続けて来てくれていた、諏訪神党の一角・海野氏を、自らの手で滅ぼしてしまったのである。
そんな諏訪氏は、武田信玄に圧迫されて滅ぼされ、滋野三氏は、武田家の家臣団に取り込まれる形で命脈を繋ぎ、小笠原氏は、なんの見せ場もないまま武田氏に蹴散らされてしまう。
村上義清は、上田原合戦と砥石城において武田信玄に二度の煮え湯を飲ませたものの、結局は、北信の諸侯とともに、上杉謙信を頼って越後へと落ち延びてゆくことになった。
武田信玄と上杉謙信は、横田河原の戦いを再現するかのように千曲川に布陣し、もはや主役となることはない信州の諸侯を横目に、川中島の合戦を繰り返した。
信州は、もはや単独の力では、その対立構図を維持することは出来ず、武田・上杉の抗争や、北条・徳川の抗争に巻き込まれるだけの存在へと落ちぶれてしまう。
海野氏、仁科氏、高遠諏訪氏に至っては、信玄の息子たちが養子に入ってきて家督を継ぐこととなり、香坂(高坂)氏もまた春日昌信がその名跡を継いだ。
祢津氏の一族との説もある真田氏だけは、真田幸綱(幸隆)が武田家に臣従し、滋野嫡家・海野氏の嫡流とその家紋を受け継ぐと、戦陣に六連銭の旗印として掲げて戦った。
信濃武士としては、かろうじて真田氏だけが、滋野三氏の事績を受け継ぐ形で表舞台に姿を現し、戦国史に、滋野一族・最後の光芒を放ったと言えようか…。

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