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【ソシガヤ格闘記・第9朝】自分と地域を重ねていくことへの希望と恐怖。

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

昨日は春分の日。みなさんは何をされていただろうか。
僕は昨日は食品衛生管理士の資格をとり、4月以降毎月開催予定のイベントに向けて着実に準備を進めている。夜はとある祖師谷の居酒屋で働かせてもらい、その足で深夜に土管工事の仕事をしながら、街を支えるインフラと裏事情を知る日常を過ごしている。

自分と地域を重ね合わせていくこと。当たり前だけど、重要だと思っていた。

街の中に入ってこそ、その中の事情がわかるし、重ねていくといったプロセスを通して、ずれや痒さが発生していくことで何かが生まれていく。それこそ身体性が街にまで拡張された世界、こそ一番の理想。感覚的に同化する必要はないだろうが、街自体が一つの生物として捉えられるような、集合体になればいい。

そう思ってた。

もちろんその考えは今も変わってない。本や参考書、街の基本計画など開示されている情報ではわからない生きた情報は、重ねて合わせていく過程を通して、自分ごと化されていく。そしてその生きた言葉を通して、自分の仮説と反証を繰り返し、成果を生み出していく。この考え方は真っ当だと思う。そういう意味では、まだ知るといったプロセスは足りないし、まだまだ知らないことはたくさんある。

反面、何かに縛られ出した自分が怖い。街の声を全て聞き、全てYesと言い、全てを取り込もうとする自分が怖い。知らないのは当たり前なのに、知ることが目的になってしまう自分が怖い。一般人のお願いを叶える某TV番組のように、一つずつ着実の思いを叶えることはできるだろう。ただ時間が掛かる上、それって本当に街全体が変わったことになるだろうか。むしろ、「消費者と生産者」、といったコンテンツやサービスの構造になってしまうのが怖い。

全部やってあげようとするのはある意味楽である。言葉に沿って体を機械的に動かして、その人の欲を効率的に解決すればいいから。科学的に思考を定義する気もないし、「思考ってそもそも何?」と言われたらぐうの音も出ないが。

人間とAIなんて大差ない。比べることが愚かである気がする。僕たちは自分が知っている情報と周りの環境に依存して生きている。完全に独立して生きていける人間はいない以上、純粋な「思考」自体の存在可否は定義し得ないのかなと感じる。

そんな時に希望となるのが、フィクションとしての親父ギャグである。
言葉の語感に合わせた、想定を超えるつまらない言葉こそ、人間の希望である。そこに思考はいらない。喜怒哀楽で表現し得ない、複雑な感情になる瞬間が生まれる。その瞬間こそ人間が剥き出しになり得る。

そう考えると、僕は今祖師谷で人生を賭けたコントの種を植えてるのかもしれない。全員が笑わなくてもいい。ただ一部の人が腹を抱えるほど笑えるような。でもむしろそっちの方が難しいし、未来を変える可能性を秘めてる。

「地図ではなくコンパスを」
MITメディアラボで重要視されている9 Principlesのひとつである。
地図のような全てを教えてくれるものを書く必要はない。喜んでくれるが、可能性を狭めている。むしろどこかに針を深く刺して、そこから色々な方向に鉛筆を拡張させていく。これこそ覚悟がいることかもしれない。

でも未来は一つじゃない。無限にある。そんな時代だからこそ、重ね合わせて全てを模写するのは限界がある。芯を持って、深く何かに取り組んでいきたい。

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