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【ソシガヤ格闘記・第4朝】富士山の光を浴びて人間に戻った。

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

昨日の疲れを癒すために、富士山の麓、鳴沢村へ体と心を癒しに行ってきた。雪水で解けた芝生を裸足で一人で目を瞑り歩いた。地球と結びついた感覚を取り戻しながら、やっと自分の中で人間らしい感覚を取り戻すことができた気がする。Earthingと言う言葉のあるが、そんな安直な言葉では形容し難い何かを取り戻すことができた。

富士の麓で絵の具を持ち絵を描いてみた。
ここでは見せられないほど拙い作品。どこか片岡球子さんの『五合目からの赤富士』を匂わせている。紙の上にそれぞれのものが重なり合い、二次元上に厚みのある空間が出来上がる。

かつて小林古径が「今のあなたの絵はゲテモノに違いないが、ゲテモノと本物は紙一重の差だ…あなたの絵を絶対に変えてはいけない。」と励ましたという逸話をみて、僕も勝手に悦に浸っていた。

富士での話はここまでにしておいて、FIGUREとopenAIの連携が少し楽しみになってきた。GoogleのMobile Aroha然り、ここにきて急激に自己学習のデータ量と微妙な調整が違和感なく繋がってきている。玉ねぎを切るときの微妙にずらす感じとか、椅子を少しずらす感じとか、それが難しいはずなのに、それがスムーズに実現できているのが画期的。

間違えなく、これらの活用は業界や産業全体に風を吹き込むだろう。
街の中でいずれ作業の担い手が変わることへの期待も膨らむかもしれない。
ただそこで結局欠落しているのが、コミュニケーションの担い手である。
単に導入して終わりでも、何も変わらない。そこに意味や想像力が欠落しているように感じる。

どういう意味と物語(フィクション)を持って、
違和感なく溶け込める物語を作っていくかが、僕たちの役割である。
僕らはもう考えなくてもいいのかもしれない。メタバースもセカンドライフからだいぶ時間が経っていまがある。何をするにしろ、理解できぬ。合理性以外の何かが作用する。

僕たちは技術ではなく、ただ単に新しい時代が好きなのだ。
「技術力は新しい始まりを開く」と言う命題自体は全く新しくないし、
技術単体で新たな事象が展開すること自体は、歴史上にみる新しい事象でもなんでもないはずである。しかしここに人間の想像力や「人間力」が乗っかってくると予想不可能性を生む。

技術の本質はけっして技術的なものではないのだから、技術への本質的な省察と、技術との決定的な対決とは、一方では技術の本質に親しいが、他方ではそれと根本的に相違するようなひとつの領域で生じる。

そのような領域が芸術である。

ハイデガー「技術への問い」

ハイデガー自体も技術によるゲシュテルに囚われた人間、
事物を「挑発」することに陥った現代技術を危険と捉えている。
あたかも主体的に動いている人間だが、いつからそうなったのか。
自分が要求され、導かれていることさえ、見落としているかもしれない。
それゆえ、隠されているものからの呼びかけを聴くことが出来ない。

同時に技術と対決できる「美しき技」としてポイエーシスには可能性を感じる。思索により、技術の本質へと開かれることを通じて、現代技術との「自由な関係」を作ることができる。

僕がこのように意味もなく惰性的に文章を吐き続ける行為を始めたのは、
ある種技術への抗いである。同時に技術への尊敬も存在する。
文章を編集もしないし、吐き続けた文章を直接公開しているのもある種の自己形成の芸術としてこの場を捉えているからに過ぎない。

だから別に意味なんて考えてないし、自己満足である。
人間的な感性を持ち、「なんか美しい」「なんかいいな」と思えることが
僕にとって生きた証であり、それを昨日の時間で取り戻すことができて今は幸せである。


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