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【ソシガヤ格闘記・第7朝】身体を動かすってどういう意味なんだろうか。

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

昨日は渋谷QWSで開催していたシンポジウムに動画で参加。
自分が通っている大学院の南澤教授がPMを務めているCybernetic Being の活動報告会、件トークセッションが開催されていました。


最近居場所に対する一つの解として、身体体験の共有が鍵になるのだろうかと感じるようになった。まちづくりの会議をしていると、「居場所」「サードプレイス」という言葉が必ず一つは出てくる。ただ居場所自体、概念拡張が可能なのではのはないだろうか。倫理的な問題や法規的な問題はあるのせよ、純粋なこれまでの「場」は一つの選択肢に過ぎないのであり、十分条件になるんだろうかという疑問がある。場の同一性と同時に、場を同じくしている「場を同じくしている意識」の正当性にも敬意を払うべきではないのか。

例えば移動中のバスやバス停も、居場所としてどんと構えてないが、十分居場所になりうる。ネットワークで接続され、いつでもどこでも世界中の人と繋がれている場合、それは居場所といえないだろうか。また携帯を苦手とする人でも、読書や文字を読むこと、そこから思いを飛ばすこと自体居場所に没入することと言えないだろうか。あくまで居場所をどの程度に定義するかによってこれらの議論は変わるのはいうまでもない。

ここら辺の議論に関しては、色々な歴史の先輩たちが「存在と意識」といったテーマで議論しているに違いない。なのであえてそれらの言葉を意図的に引用するのではなく、自分の内部から出てきた言葉で感じたことを昇華する。

身体を動かすってなんだろうか。
力を特定方向に動かそうという意思のもとに、体が特定方向に動く。
意思と行動に時間的なずれが想定時間内に生じた場合、自分の体は動いたと認知する。であれば、特定の体に付随するものが、想定時間内に動いた場合、自分の意思と紐付けて動いていると錯覚することができるのであろうか。もしくは実体的に動いていなくとも、周りの人が動いていると錯覚すれば動いていることになるのだろうか。

人が動いている、に対する認知の仕方自体可能性が増えている。
目を瞑っている瞬間に動いている場合、それをどのように認知すればいいのだろうか。自分の身体状態が悪いという定義は、そもそもの初期値が良いという前提に立っており、どちらがデフォルトなのかという定義すら見失っているのではないだろうか。体調が悪いと、体内の細菌を煮沸するために、体温を向上させていると、授業では習った。ただそれは本当だろうか。

考えていると疑問は止まらなくなる。
いずれにしろ、身体体験を共有する、といった感覚は面白い。
自分の意識と実質的な動きにズレがあった場合、自分の身体に対する意識がむき、自らの体への意識の眼差しが瞬間的に萌芽する。ある種道具的になっていた自分の身体が、自分の主観的な意識と切り離されて、独立した存在として生まれる。骨折した足や、靴擦れした自分の足のように、憎めない腫れぼったさが生まれることで、自分への愛情を気づくのだろうか。

最初から全部を想定できない中で、この腫れぼったさこそ至高である。
科学は腫れぼったさの中で自分と社会的事実の間を往来する中で、再現度に関する尤度を上げる努力を重ねてきた。時に積み上げてきたものを放ちながら、集合と離散を繰り返す人生を歩んでいきたい。

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