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【ソシガヤ格闘記・第20朝】4週間続けて感じたこととこれから。

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

文章を書き始めてはや4週間、だいたい1ヶ月。これまで文章を書くことが多かったし、思いの丈を校閲せずそのまま文に記していることもあり、負担なく書き連ねてこられた。

そんな今だからこそ、今後を見据えてこの格闘記をどのようにするかを考えていきたい。

文を書こうと思ったきっかけは、自分の思いのぶれを表現するにはnoteに毎日投稿することが最適と思ったからだ。松岡正剛さんの千夜千冊も好きだし、文字にすることで新たな自分の発見もある、という期待感もあった。

事実、毎日発見だらけだった。つらつらと書き続ける文章で、自分がこんな言葉使うんだ、とか、こんなことを思ってたのか、と後から知る。そして自分の思いを他の人に届けることもできる。

短い文章にぱっとまとめる力、要約や宣伝での言葉などとは異なり、ダラダラと思いの節を投げていくのも悪くない。その文間に存在する何かを見つけることができる。1ヶ月だけど試験的にやろうと決めて、やって良かったと思うことも多々ある。

ただ、文を書くことに甘えている自分がいる。

文章を書くと、それなりにやった感が出てしまう。それがあまり重い意味を持ってなかったとしても。意識してなくても、やった証拠は残り続ける。
それが嫌だった。自分は、誰にも見せない日記も書いて入る。可読不可な文字で、家に眠っている。綺麗な文字で、公開する文章は、小綺麗になってしまう。他人の目は少なからず意識する。無茶苦茶な文章を書いていても、無茶苦茶な文章を書いた「私」を、自然と意識してしまう。

時にそれが甘えに変わってしまう。私的には編集行為の一環として文章を書いているつもりだが、自己欺瞞にもつながる。大したことはなくても、文章ではいくらでも体験に息吹を吹き込める。リンク一つ、ボタンひとつで、はたまた文字ひとつで、やった感を演出できる。

まずは1ヶ月やってみて良かった。

でも、1ヶ月やってみて良かったことの方が多い。先ほども述べた通り。やってみないとわからない。積み上がった文章もまた、自分の化身となって今後も存在する。心強い。

思い返すと、自分の生活習慣は、1ヶ月始めたことから身になっていく。読書や瞑想、運動など。当たり前になった習慣は、1ヶ月が消化期間である。そういう意味で、1ヶ月続けられたことは自分の体に合っている証拠だろう。

週1度土曜日に、その週に起こったこと、感じたことをまとめて考え、まとめて記す時間を作ろうと思う。

自分の特性に合っているとはいえ、毎日やっていても届ける対象に届いていなければ続ける価値はない。今の自分にとって。浅い内容を文で装飾しても、内容も感情もついてこない。そうなのかなと感じた。

この体験や思いを届ける対象を広げたい。適切なメディアに力を配分する必要性を直感的に感じる。今の時点で輪も広がってきているからこそ、もっともっと色々広げたい。自分の可能性も、新たな発見や体験も。

今後どこかで、毎日投稿に戻るかもしれない。どうなるかわからない。ひとつ言えるのは、誰にでも描ける文章を書くことが僕の仕事ではない。仕事という言葉は当てはまりが悪い。もっと意味わからないことを意味ありげに描けるように、そして広げていきたい。

色々なことと格闘しながら、クネクネ曲がりくねった道を歩み続ける。
今後もよろしくお願いします。




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