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【ソシガヤ格闘記・第14朝】楽しかった、またきたいという場を目指して(事例調査②)

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

朝とか書きながら、もう夕方になってしまい申し訳ない。
タイトルの第⚪︎朝というのは、尊敬する松岡正剛さんの千夜千冊からインスピレーションをもらった。千夜連続で名著に対する感情と論理の表明をし続け、かつ陶酔させる文を紡ぎ続けるのは覚悟がいる。僕も僕なりに、感情を吐露しよう。昨日は気持ちの高揚や一体感、帰属意識などに焦点を当て事例を見た。今回はアクセシビリティやユニバーサルデザインの潮流を調査する。

日本におけるユニバーサルデザインの進展は1990年代初頭にその基本概念が導入され、国の迅速な高齢化に対応する形で徐々に深化してきた。アメリカのAmericans with Disabilities Act (ADA)やヨーロッパ連合のEuropean Accessibility Act (EAA)などの国際的な法的枠組みが示すように、法的強制力を伴う規制は公共空間のアクセシビリティを高めた。

2000年代には日本政府も「バリアフリー新法」を策定し、2020年東京オリンピック・パラリンピックを契機に更なる推進を図った。鉄道駅での点字ブロックの設置や、車椅子利用者向けの施設改善、多言語案内表示の充実など、具体的な施策は国内外の来訪者への配慮を示すと共に、言語の壁を越える努力も見られる。

ただ日本におけるユニバーサルデザインの実装状況を精査すると、依然として不十分である。その停滞は複数の要因に根差しており、一つは、経済的・政策的優先順位の設定に関係する。小規模事業者や地方自治体は、限られた資源を緊急性の高い課題に割り当てる傾向があり、結果としてユニバーサルデザインへの投資が後回しにされがちである。また、法的義務の範囲が不明確であることも、具体的な改善措置の実施を妨げる一因となっている。加えて、既存のインフラや建築物は過去の基準で設計されており、これらを現代のバリアフリー基準に適合させるには大規模な改修が必要となるため、費用面での課題が顕在化している。

法的制約や技術的障壁を打破することはもちろん、ウェブアクセシビリティを含む技術的障壁や、ユニバーサルデザインの重要性への社会的認識の不足を変えていくことも必要である。むしろ僕たちに先んじてできることはそこなのかもしれない。そして、アクセシブルツーリズムは一つ鍵になる。

Accessible Tourism Tokyoは、障害を持つ人や高齢者も楽しめるよう東京の観光情報を提供し、モデルコースの提案を通じて、誰もが訪れやすい観光の可能性を広げる。日本全国のバリアフリー情報を多言語で提供し、世界中の旅行者が日本を訪れやすい情報基盤を作る。

北欧を中心に展開するScandic Hotelsでは、ホテル業界におけるアクセシビリティの向上における模範例とされる。101のアクセシビリティ共通基準の設定や、従業員の障害者サービス研修、ウェブサイトでの情報公開などを行っている。また、Wheel the Worldのようなプラットフォームでも、車椅子ユーザーに特化した情報を提供し、彼らが直面する旅行の障壁を低減するよう努めている。最低限の情報を掲載し、マニュアル化するといった取り組みは進んでいる事例がいくつかみられた。

こうした情報開示を見ていると、案外思考を飛ばして仮の想定を作ってみるのも面白いかもしれない。かつて千葉大がロボット憲章をつくったように、今まだ実現されてない世界を夢見て、自分たちで想像し、新しい憲章や世界観を作ってみる、みたいなのもできたら面白い。

加えて、それをしっかり案内できる何かも必要な気がする。それは人なのか、チャットbotなのか、ロボットなのか。現時点では人が一番接しやすく相談しやすい。結局情報はあっても、それが文脈の中でどう構成されるかが重要であって、誰に相談すればいいのかという問題を超えない限り、情報は無駄になる危険性を秘めているはずだ。

物理的な配慮としては、階段を上手く平らにして、エレベーターのように上下運動する仕組みを作っている事例もある。ノンステップバスのように、乗り入れがしやすい仕組みを板を使って一時的に作る、みたいな風景もよく見るようになった。全部を変えるのは予算的に難しいので、一部分をモジュール化して取り替えたり、時に入れ替えたりできるよう制御するのは未来がある。規格が統一されてなかったり、そこに規制が関係する場合もあるが、そこも整えていけたらいい。

もっと身体に訴えかける方法はないのだろうか。と思っていたら、他の方から、WheeLog!街歩きイベントを紹介されたのを思い出した。チームになってランチを食べたり街歩きをするのがミッション。健常者が車椅子に乗って街中を歩くことで、普段感じないようなイライラや葛藤を自ら体験してみるというのがコンセプトである。

操作する形で体験しても面白いかもしれない。車椅子を操作する、乗ってみる、といった体験すらない世の中で、自らの関係値を作る機会を創出する。それはやってみる価値がある。自らがマイノリティになってみるというのも一つ疑似体験の形としてある。虚構の中での自分の立ち位置を客観視してみるのは一番胸に刺さりやすいだろう。

ここまでいくつか事例を説明してきたが、障がい=大変なものというラベルをつけるのは短絡的であり危険である。一つの個性にすぎない。だからこそ本質的にはそれぞれがそれぞれで快適に過ごせる環境や可能性を提供する。それを忘れてはいけない。それを胸に刻んだ上で、自分には何ができるだろうか。

きっと知らないこともたくさんあるし、普段気づかないこともたくさんある。弱視の人だって、左手の人だって、温度差が苦手な人だって、どんな人だって、いる。ただ話してみないとわからないし、一緒に何かしないとわからない。だからできるだけ可能性を作っていきたい。
そのために最低限できることを整えていく、それが自分たちの使命である。

楽しかった、またきたいといってもらえる場所を目指して。

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