見出し画像

【ソシガヤ格闘記・第6朝】建物に囲われたイベントの弊害と違和感

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

土日を空けてまた月曜日。この土日は結構バタバタしてました。
月曜になり、朝もバタバタしてたこともあり、
投稿するのも朝ではなく夕方になってしまいましたね。すみません。

土曜日は砧地域のご近所フォーラムに参画してきました。
年1度開催されるご近所フォーラムは今年でなんと13回目を迎えるらしく、
100人をゆうに超える方が参画されておりました。
自分も実行委員長の佐藤さんや、実行委員の方の繋がりや紹介もあり、
参加することになりました。とても面白かったです。


ご近所フォーラムでは毎年テーマがそれぞれ異なるのが特徴です。
実行委員長が決めたテーマに従って、実行委員の方々の中でチームを結成し、それぞれのテーマに即してどのように進めるかを練り込んできます。

年度によっては、ペットボトルを使ったワークショップをする年もあれば、
真剣に議論し結論を何か出して発表する形式もあるらしく、
今年は比較的後者寄りでしたが、ゆるい雰囲気でやり取りができました。
今年の題目は「砧は私たちの誇り」ということでした。
認知症、子ども、看取りといったテーマでグループに分かれて具体的に話していきます。

僕は子どもセクションに入らせてもらい議論しました。
若者というテーマでしたが、1歳の少年をのぞいて、僕が一番最年少。
次に若い人が30代の方でした。こういうところでも、もっと若者が参画しやすい設計が必要なのかなと強く感じます。

こと若者というテーマで、印象的だったのが、
若者の原体験が、地域参画に左右しているのではないかという仮説です。
当たり前かもしれないですが、まちづくりや地域参画自体も、時系列に沿って考えていくことが軽視されている節を感じます。町で叱られたり、ほめられたり、ご飯をいただいたり、そんな体験こそ自分の価値観を作っているのかなと改めて感じます。サザエさん的世界観は戻ってくるんでしょうか。

ふと社会を見渡すと、日常的行為の延長線上にあるまちづくりへの参画が、いつの日か特別な形になってしまっています。日常の床屋政談やコーヒーを飲みながら政談していた風景はどこに行ってしまったのでしょうか。今更投票率が、、という議論は不毛ですし、そこだけを追いかけることはしたくないです。

合理的に考えれば、二元論では語れないですが、プラトンの哲人政治や無意識民主主義的な思考は現実的かつ、今の時代に即しているのかもしれない。ただ正解っぽいものが事前に想定され、そこから逸脱されることが許されなくなってしまう危険性もある気がする。インプットされる情報が限定的になれば、そこからアウトプットされるものは限定的になる。アフロフューチャリズムの文脈と近いかもしれないですね。

可能性を一つにするのではなく、なるべく可能性の芽を作っていくことで、想像力の涵養にも寄与するのかなと感じます。建物に閉じ込められていると、建物にアクセスできる人しか建物に入ってこない。建物に入らずに開催する、建物の場所を変える、開催の日程を複数にする、建物自体を移動型にする、と可能性は無限大にあるはず。

今目の前にある現象に対して、巨視的にみながら、選択肢をたくさん作っていけるようにしたいなと思ってます。素人だからこそできることもあると信じて。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?