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【ソシガヤ格闘記・第17朝】形のもたない「らしさ」への固執からの解放

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

〇〇らしさという言葉にすごく惑わされる毎日。オリジナリティ、とか
その人らしさってどういうところに現れるのだろうか。そもそも「らしさ」ってなんなんだろうか。

祖師谷で活動していると、時々言われるこの言葉。いったいなんなのか分からずに、自分も「頑張ります」と返答してしまっている。おそらく情報量0だが、面白いので、自分なりに仮説を立てて考えてみよう。

前提1:何と比較しての祖師谷らしさなのだろうか?

らしさという言葉を使用するときに、前提として対象物がふたつあることが前提となっている。AとBを比較して、AがBにはない要素、もしくはより際立った要素を持っているときに、Aらしいねという言葉を使用する。だからそれ単体の評価として、らしい、オリジナリティという言葉は使用しない気がする。

となった時に、何と比較しているのだろうか。
他の街、類似した他の取り組み、昔やっていた取り組み、その場ではなくとも街の人が違う場所でやっていた取り組み、5W1Hの少しずらした先の対象と比較していることがほとんどな気はする。ただほとんど誤差がない。その中で一番差が見えやすいのは、せいぜい近接性の高い場所との比較か、もしくは時間軸で過去に遡った事例との比較である。

前者の場合で言うなら、例えば、「小田急線沿いの〇〇駅ではこう言うことをやっていたけど、祖師ヶ谷大蔵駅では△△をやるのが祖師谷らしいね」と言う言葉が一番当てはまりがいい。後者の場合で言うなら、「20年前にこう言う取り組みをやっていたから、今△△の取り組みをやるのが面白そうだね」とかこう言う言葉だろうか。どちらにしろ、かなり近接した距離感の対象物を対象に「らしさ」を語っている。

であれば、近接した距離感での対象ではなく、引用先として親近感のない事例、もしくは抽象度の異なる事例を引き合いに出した場合に、それは「らしさ」と言う発想になるのだろうか。下北沢でこんな取り組みをしていた、だから祖師谷では祖師谷らしさを出して〇〇をやろう。と言う運びになるのは当然。ただとある動物が生態系として〇〇な巣を作って移動手段としてこのような画期的な手段を使っているんだよね、だから祖師谷でも祖師ヶ谷らしくやろう、という話に滅多にならない。

前提2:どのタイミングで祖師谷らしさを感じるのか?

取り組みを始める前に、それって祖師谷らしくなくない?と言われたこともある。ただ祖師谷らしさを最初から感じることってないんじゃないかなと思ってしまう。私たちは今を生きている以上、二つ以上の事例を比べる際には、絶対に過去の事例を比較せざるを得ない。ここまで積み上がってきた自分たちの軌跡と、他の事例を比較することで、一定の優越感や特別感に浸されるている。

その時間差は数秒の微少な差があることもあれば、時として数十年や数百年の歴史や伝統として形を表すこともある。だからこそ歴史や文学のレンズを通して、自分たちを再発見するプロセスは重要だし、それ抜きに自分を語ることはできない。

でも裏を返せば、今の時点で「らしさ」を判断するなんてことはできない。つまり今やっていることが、それ「らしい」かなんて未来から今を見返した時にしか、分からないことなのである。だから今、「それってここらしくないよ」などと言って行為を逡巡するのは違うのかもしれない。僕たちが今生きていて、自由に身を動かせる以上、らしさを作れるのは今生きている人間だけだ。それを作り上げてきたのは昔の方々の絶え間ない努力と生殖のおかげかもしれない。

だから今生きている人が作り上げるものこそ「らしさ」であると思いたい。

結論:自分たちが想定している「らしさ」は形がない。

もっと語りたい。でもキリがない。
おそらく何言ってんだ、こいつ、と思っているだろうが。言いたいことはただ一つである。自分たちが想定してる「らしさ」という言葉はとても狭いのではないだろうか。哲学を語りたいわけではない。

就職活動する時にも「あなたらしさはなんですか?」はと幾度と聞かれた。
そんな時に、「真面目に頑張れることです」「100メートル5秒台で走ることです」と答える真面目の学生が多かった。素晴らしいと思う。

でももっともっと世界は広いし、数えられないパターンの中で今生活をしている。かつて就活をしていた僕は「ここに来ていることこそ自分らしさです」と答えたことがある。「何言っているんですか」、と言われ面接に言われ閉口された。結果その会社にも行けなかった。でもあの時の自分に言いたい、「それでいいんだ」、と。

今生きていることこそ、「らしさ」を作る一歩になる。「らしさ」に縛られる人生なんてもったいない。「らしさ」は見せ方の一つであって、即時的に作ることだってできる。「〇〇らしさ」の丸々の部分の階層や抽象度を変えて、幾分もアイデアを作ることだって出来る。「らしさ」という曲を祖師谷で毎日流していれば、祖師谷らしさに変えることだってできる。

取り止めのない話になってしまった。
「らしさ」に固執する必要はない。ただ「らしさ」の視野を広げて考えてみるのは大切。そのために必要になるのが想像力である。情報の中で対象と対象を繋げる「らしさ」を見出し、その見出した「らしさ」に相応のロジックを加える。それこそ必要な「らしさ」活用法な気がした。

まあ個人としても、近視眼的な男らしい男にはなりたくないものだ。


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