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【ソシガヤ格闘記・第5朝】祖師谷の歴史を簡単に調べてみる。

こんにちは。初めまして。
慶應義塾大学メディアデザイン研究科修士2年、
休学中の吉田凌太(よしだりょうた)です。

祖師谷ってどんな歴史や文化が根付いているのだろうか。
と考えても、パッと出てこない。

祖師谷という地名の起こりは、一つには村の谷の近くに地福寺というお寺があってその境内に祖師堂があったためという説がある。また一方の説では、鎌倉時代初期にこの地に住んでいた豪族の粕谷氏が、弘安年間に日蓮宗の開祖・日蓮の布教によってその教えに帰依する人々が多い中で、法華を深く崇敬し、領内に一堂守を建立(祖師山院就沢寺(後焼失)と命名)し、日蓮の死後に祖師像を彫刻し、安置したことによるとされている[5]。また、四丁目には祖師谷の名の由来とする祖師堂も存在する。

wikipedia

上祖師谷の南には祖師谷が存在するが、かつては一つの村だった。祖師谷村が上下に分かれたのは元禄八年(1695年)の検地の時で、元禄十一年以降は幕末まで両祖師谷とも天領として存在していたらしい。
Wikipediaにはあくまで一説としてこのように書かれているものの、
説に過ぎないというか、あまりしっくりこない。

むしろ、祖師谷の駅の北側から千歳台の方に抜けていく道の側道に、
いくつもの庚申塔が立っている方が僕にとっては気になることである。
だから少し調べてみた。

庚申塔は、庚申信仰に基づいて建てられた石塔で、庚申信仰は中国から伝わった道教の信仰である。庚申信仰は江戸時代に日本で大流行し、庚申の日に行われる儀式や集まりを通じて、長寿や健康、家内安全などを祈願していた。庚申の日に徹夜して眠らず、身を慎むことで長生きできるという信念に基づいて、庚申の日に行われる儀式や集まりを通じて、健康や長寿、家内安全などが祈願されていたらしい。今聞いてもなんかワクワクする。

世田谷区では、道や村の入り口の分岐点に庚申塔が建てられており、
村内に悪霊などの災いが入り込まないように建てられていたと書籍に記されている。「二世安楽」や「請願成就」といった現世と来世の安楽を祈る文字が刻まれているのも納得がいく。ウチとソトの感覚が小さな村単位でも強く形成されており、その境界を和らげる存在として庚申塔があったのだろうか。

あとは、庚申塔を中心にした講が字単位で行われていたことも分かっている。お金や財をお互いに持ち寄って、くじ引きをして、当たった人が全部それを獲得できる、といったなんとも残酷なゲームが展開されていたとのこと。今の時代がいかに平等原理に敏感になっているかを改めて気付かされた気がする。

祖師谷北部にある祖師谷公園も、少し前までは、大学の農場だったとのこと。当時の東京農業教育専門学校が、 学校の所在する駒場の農場だけでは手狭になったため、田畑のほか樹林地が広がるこの土地を購入し、「祖師谷農場」とし、よりよい農作物を生み出すための研究や、農業実習などを行っていたらしい。今でも祖師谷や千歳台の方に畑がいくつか存在するのは、地主の方の影響もあるだろうが、水捌けや土の環境も関係しているのだろうか。

上祖師谷には高床式倉庫から発展した神明造の神明社がある。
太陽神であり、皇室の祖神である天照大神を主祭神とした神社で、農耕祭礼と結びつき新田開発の際に創建することが盛んだったよう。ここにも、農耕とのつながりが見られるのがやはり面白い。

さて、ここから何をするにしろ、その場の歴史や伝統はとても大切である。
もちろんこれらに完全に従順になる必要はないが、ある程度のコンテクストの上に載った形で、人が流動的に変化していく形を取らないと循環性は高まらないのかなと思う。

まだまだ知らないことはたくさんあるが、勉強しながらだな。

とりあえずまだ旅は始まったばかり。
ここからこの先どうなるかはわからないけど、僕は歩き続ける。
祖師谷の仲間と共に。


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