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泉水雄矢詩集『unbox/開けてはならない』

 泉水雄矢さんの第一詩集(私家版)。20の詩篇収録。その中で、巻頭詩『深淵の里』だけを独立させ、目次の前に置く。「深淵は、覗き込む君の目を望みながら/決して許しもしない」とあるが、これは「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ(『善悪の彼岸』より)」というニーチェの言葉を意識して書かれたものだろう。タイトル〝unbox〟は、〝remove from a box〟の意味だが、この〝a box〟、巻末詩『二月の道化師』の「キモイ枠」が、泉水さんの言う〝深淵〟かと思う。
 
 本詩集に収められた詩は、正直、難解なものが多い。しかし、一冊として読み終えたとき、ずっしりとこちらに届く。泉水さんに選ばれた言葉の孕む通奏低音にブレがないからだ。印象的な幾つかのフレーズを挙げる。
 
風呂に入ることが贅沢なのではない
風呂に入りたいと思う心が贅沢なのだ
               (『太った鼠』より)
 
犬は人間ではないのだ
犬が人間ならば
私が人間でないのだ      (『審判の箱』より)

 石原吉郎の「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」を思い出した。というか、強制収容所のことを書いておられるのかもしれない。
 
花でなければ 人間ではない(中略)
風に揺れるたび 全身がひび割れるように痛む
私は 土入りの爪で散った花弁を集め
私が 花であることを宣言する   (『宣言』より)
 
味噌汁に「お」をつけるような
そんな呼吸を
私はまだ コーヒーごと飲み下している
               (『冬の呼吸より』)
 
禍福はその都度私たちを嘘つきにするから
実は覚えている事を 実は忘れているのだ
                 (『禍福』より)
 
 本詩集で、私が最も好きだったのは、『ムンヘイ』だ。全文を挙げる。

秋吉台の草むらに 潜む巌にむす苔の
その僅かな湿り気について考えていた

リラの花はまだ北京で揺れているだろうか
酒瓶を片手に、縁側に腰かけ
祖父は酔うと時々 満州の話をしていた

温かい話だ
中国人とよく麻雀をしていたよ
北京の料理は美味しかった
優しかったんだ
助けてくれたんだ
鉄道で襲われる前に 人民服を着せてくれて
ムンヘイ、ムンヘイと

何も知らない私は 笑顔で聞いていた
おじいちゃん よかったねって
事実を知るのは それから数年後のこと
教科書の満州は 私のそれとあまりに違って
硬く 赤黒く 冷たかった

誰も自分の背中を語る事などできなかった
透けるように無知だった
ガラスは咎のように打ち付けられて飛散し
柔らかく 今も草むらに潜んでいる

第二外国語に選んだ中国語では
先生がはじめに 中国読みを書き足していく
私の苗字の横には
ムンヘイ、とボールペンが走った

夏が来る前に
春は必ず、その目を閉じていくだろう

ムンヘイ
北京の春は まだリラの花が咲くよ
何も知らず無邪気に笑っていた
リラの花が 
今は無き鉄道のほとりで
薄紫の 花弁を揺らして
             
 教科書は、歴史的「事実」を記している。しかし、祖父の心の裡の「満州」は、時の流れに洗われて、温かく優しいだけの思い出になったのだと思う。第二外国語で「ムンヘイ」と呼ばれることで、作者と祖父は時空を越えて重なり合う。リラの花の香りに包まれて。

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