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非連続性の連続性

 今日は『源氏物語』の講義を受けた。先生が、大学院生の頃、「源氏物語は非連続の連続性を持っている」と、先輩から教えられたそうだ。点描画は近距離だと点の集合体にしか見えないけれども、離れて見たら絵画作品として鑑賞することができる。源氏物語五十四帖も、各々独立していながら、全体を通して因果応報をテーマとした一つの物語になり得ていることだと、私は理解した。
 詩集も同様である。一つ一つが独立した詩篇でありながら、一冊読み了えた時、訴えかけてくるテーマが在ってほしい。ただ、あまりにも声高に訴えられたら、読者はひいてしまう。最近読んだ詩集の中に、巻頭詩を章立てから独立させて置いているものがあった。それはそれで良いと思うのだが、その詩が感嘆符だらけで、押し付けられているようで、それ以上、読み進めたい気持ちが半減した。
 それに対して、源氏物語は、各巻とも書き出しが洒脱である。例えば「いづれの御時にか(いつの御代のことでしたか)」で始まる『桐壺』、それに続く『帚木』は「光る源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに(光る源氏などと、たいそうな名で呼ばれているが、口に出せない失敗も多いので)」。このように思わせぶりな書き方をされると、読者はもっと教えてという気分になる。「あなたにだけ教えてあげる」と耳元で囁くような文章を私は書きたい。

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