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企業とそこの労働組合と政商と企業業績と その1

この記事を読まれた方で東京は原宿にある太田記念美術館に行かれた方はいるだろうか?東邦生命の社長であった五代目太田清蔵が収集した浮世絵コレクションを展示している日本には数少ない浮世絵専門の美術館だ。
東邦生命は経営悪化から1999年業務停止を言い渡されその後外資へ売却されwikiで調べたら現在はジブラルタル生命保険に。危うくエジソン生命と書くところであった。
「ジブラルタル」といえばオッサンにとっては『風雲たけし城』のジブラルタル海峡。ポップコーン正一・正二は今どうしてるのだろうか?

業務停止から遡る4年前の1995年。太田一族の支配のもとにあった東邦生命の社長、六代目太田清蔵(六代目)が退任する。この六代目すこぶる評判が悪い。当時の報道はうろ覚えだがワンマンー独裁的権力を振るい親族の企業などに東邦生命から迂回融資などを行っていたなどまあよくあるワンマン経営者の教科書通りの悪い面があぶりだされていた。

この六代目だが政商としての顔も持っていた。財界人といえば自民党のつながりがすぐに思い浮かぶ(後はなき新進党とか)。六代目はまめというか清濁か左右併せ呑むぐらい鷹揚なのかは分からないが特筆すべきは自民党だけでなく労働組合を通して当時の日本社会党との繋がりを持っていたことだろう。

今は民営化された企業、日本郵政。昔は三公社五現業の現業を担っていた郵政省。その郵政省の末端、郵便局の労働者を組織していたのが全逓信労働組合(全逓)。「権利の全逓」の異名をとり1950年代、当時の郵政大臣だった田中角栄に一歩も引かず団交権再開闘争を戦い抜き、数々のストライキ・順法闘争(サボタージュ)を繰り広げ1978年~1979年の年末年始には反マル生闘争で年賀状を大混乱に陥れたりと過激な闘争を繰り広げた全逓。
その全逓を率いた指導者に宝樹元彦という人がいた。宝樹氏、数々の闘争を率いたが根は右派で戦前の共産党幹部で転向して戦後は労使協調の右派労働運動を指導した鍋山貞親氏の主催する世界民主研究所に出入りしていた。
1964年4月17日に予定されていた公労協(公共企業体労働組合協議会の略称)のゼネストに対して共産党が敵対したことから、宝樹氏は共産党系を排除した「労線統一論」を提唱し、これは後に今に至る連合の元になる。なお余談だがストに敵対した共産党員に対して各組合で除名も含む厳しい制裁処分が下されるのだが、これに辣腕をふるい頭角を現したのが全国電気通信労組(略称・全電通 現・NTT労組)の役員で後に連合初代会長を務める山岸章氏である。

1971年の全逓全国大会で当時委員長を務めていた宝樹氏は組合員から不信任を突き付けられる。大労組の大会と言えば事前に根回しが済んでいて普通しゃんしゃん大会で終るのが世の常なのだがこの時は一般労組員の不信不満が極限にまで達していたのであろう。大会での結果を受けて宝樹氏は委員長を退任する。
この記事を読まれた方で労組に加入しているかどうか分からないが、もし加入されているのなら労組の役員は退任された後の事情は承知であろう。
合同労組やユニオンと言われてるものは別にして、労組役員・幹部を退任し、ある者は出世して管理職になったり、ある者は企業の福利厚生を束ねる互助会や子会社の管理職・役員・社長として天下り。
旧郵政省においてもそれは例外はない。あれだけ労使が激しく対立しても官僚と労組幹部の天下りの利権はきちんと仲良く確保していた。
ちなみに対立する全逓に対抗して郵政省がテコ入れして全逓から分裂させて作った労使協調第2組合の全郵政労働組合。こちらの初代委員長の福井某氏は委員長退任後、郵政省と全逓の癒着利権にありつけず不憫に思ったのか郵政省が福井氏の地元に特定郵便局を新たに開設し特定郵便局長として天下りさせて恩に報いている。

話を戻して宝樹元彦氏の話だが全逓委員長退任後、郵政ファミリー企業や労組関連組織にも天下りもしなかった。一見潔さも感じなくもないが宝樹氏の再就職先、なんと六代目太田清蔵率いる東邦生命の顧問職であった。

(次回その2へつづく)

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