後世に人を遺せなくても、言葉は遺せる
※「死」に関するセンシティブな表現があります
はじめに
ずっと見続けている、あるYouTubeの動画がある。
この動画は、24時間のセルフガソリンスタンドの夜勤の様子を映した動画だ。
無職だった頃、上記のような夜間給油監視員の仕事がしたいと思い、それに関する様々な動画を見ていた時に、発見した。
初めて見た時に強く惹き付けられ、同業者となった今でも見続けている。
なぜ、この動画にこんなにも惹き付けられるのだろうか。
自問自答を繰り返し、出た回答を述べようと思う。
動画の内容と投稿者について
まず、この動画の内容と投稿者について、簡潔に説明する必要がある。
この動画の投稿者の「逝きかけオヤジ」さんは、糖尿病と心臓病の持病があり、「持病によっておそらく残された時間はそう長くない」と仰っている。
そして動画は、
車での出勤の様子→セルフガソリンスタンドでの夜勤の様子→車での退勤の様子
の順に流れ、動画内で仕事の内容や詳細、逝きかけオヤジさんの人生観や死生観などがテロップで表示されている。
「死ぬ覚悟ができている人」の言葉には重みがある
私がこの動画に惹き付けられている理由の一つに、
『「死ぬ覚悟ができている人」の言葉には重みがある。』
と思っていることが挙げられる。
そう思うようになったきっかけに、過去に「死」を強く意識した経験をしたことが挙げられる。
不眠と食欲不振がひどく、適応障害と診断された時は、本当に死ぬかと思った。
30歳を過ぎて、当時勤めていた職場を次の仕事を決める前に様々な事情で辞めてしまった時は、もう人生終わった、本当に死のうかと思い、完全自殺マニュアルを衝動買いしてしまった。
若い頃は、死は遠い未来の出来事だと思っていて、人間はいつか死ぬと分かってはいるがその事実に目を逸らし生きていた。
しかし、上記の経験から、死は身近な存在へと変わった。
あの時病院に駆け込まなかったら、もしかしたら死んでいたかもしれない。
完全自殺マニュアルを読んで、「人間は、その気になれば死ねるのだな」と思った。
自死を選択しなくても(そもそも絶対ダメだが)、いつどこでどうなるか、自分でも分からない。
近いうちに病気にかかり死ぬかもしれないし、健康でも明日事故にあって死ぬかもしれない。
遠い未来の出来事だった死が、身近な存在へと変わったのだ。
だからこの動画は他人事と思えなかったし、それどころか、「残された時間はそう長くない」と死を覚悟している逝きかけオヤジさんの、そう長くない時間の中で振り絞って出した言葉に重みを感じた。
そこに正解不正解は無い。
一文字一句、思いを込めて打ったであろう文章に重みを感じたのだ。
後世に人を遺せなくても、言葉は遺せる
そして、この動画を見て、私が一番強く感じていることがある。
それは、
「後世に人を遺せなくても、言葉は遺せる」
ということだ。
この世には、「ミーム」という概念がある。
子を作り遺伝子を遺すのではなく、創作や芸術、風習と言った文化的なものが人から人へと伝えられ、それが遺伝子のように複製や拡散され広がっていくことをミームと言う。
私は逝きかけオヤジさんの動画に強く惹きつけられ、言葉に重みを感じ、こうしてnoteを書いている。
これは「ミームが伝わった」と言えるだろう。
引用した著書は、「持たない幸福論」という良書である。
そして、引用したページには、
と書かれており、私は心からそのように思う。
なぜならば、逝きかけオヤジさんの動画を見て、実際にそれを強く思えたからだ。
私は今年で34歳になるのだけれど、子供はいない。
それどころか、結婚していない。
結婚して、家庭を築きたい願望がある一方で、正直厳しいだろうなと諦めている気持ちもあり、私はそれを負い目に感じている。
しかし、逝きかけオヤジさんの動画を見ることで、その負い目が薄れていく。
後世に人を遺せなくても、想いを込めた言葉は遺せるのだと、強く思えるからだ。
そこに、この世に生を受け、生きている意味があるのだろうと私は思う。
「生きている証を遺すため」にnoteを書く
私は、「人生を前に進めるため」にnoteを書いている。
noteを書き始めた当時は無職で、人生に絶望していた。
それまで文章を書いたことはあまり無かったが、「人生の土台となる読書」を読んで、絶望している現状を打破したいと心から思い、noteを書き始めたのだ。
そして、私の中で、noteを書く理由がもう一つ増えた。
それは、「私が生きている証を遺すため」だ。
先にも述べたが、私はいつ死ぬか分からないと思っている。
明日死ぬかもしれないし、明後日に死ぬかもしれない。
一年後に、死ぬかもしれない。
「想いを込めた言葉の重みは、人から人へと伝わる」ことを、私は身をもって感じた。
もし、私が死んだあと、私のnoteを見た誰かが、「こういう人がいるんだな」と思っていただけたら、もうそれだけで、私はnoteを書いた意味があるなと思っている。
生きている証を遺すために、私はこれからもnoteを書き続けたい。
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