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玄関にならんだ小さなくつ達

玄関を開けたら小さなくつ達が並んでいた。

並んでいると言っても、生き物のようにあっちを向いたりこっちを向いたり。どうやら娘の友だちが遊びに来たようだ。
いち、に、さんと数えれば七人もいる。おかげで私の靴を置く場所もない。
色鮮やかなくつ達で西日の当たる小さな玄関が明るくなっている。中では、ちょっとした小学生の女子会が始まっているのだろうか。疲れも忘れてウキウキするのが不思議だ。

これがほんとの女子会だ、と思った。
世間で言われる「女子会」は、どうも年齢制限が無いようだ。三十過ぎても、五十を過ぎても女性の集まりは「女子会」と呼ばれ、男性は常に排除される。対しておとこの集まりは、年齢に関わらず「男子会」と呼ばれることはない。大人の「女子会」は少し閉ざされた賑わいと化粧の匂いが想像できるが、「男子会」には、喧騒と芋焼酎の酒臭さしか思い出せない。
やはり、「男子会」という言葉はこの先も世間に認知されないようだ。

今どき小学生のキラキラ女子会はどんな展開になっているのか。くたびれた黒い革靴を玄関タイルの隅に置きながら階段の上に耳を澄ませてみた。
幼い女子に嫌われるオヤジの所作が既に始まっている。

ジュースとお菓子では大騒ぎといかないが、二階の娘の部屋からは、カンカンと高い笑い声と、カチャカチャと動き回るハムスターのような足音がいくつも聞える。

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子どもの足音ってなんてしあわせなんだろう。

大人のようにドタドタと不愛想でなく、足音を運ぶ速さと軽さが軽快なリズムになっている。単音でなく、何人かが奏でるリズムセッションのよう。そこに様々な笑い声という歌が加わる。厚くて温度の高い空気感を作っている。七人もいれば、ちょっとしたコンサート会場のようだ。

何がそんなに楽しいんだろう。

でもそれは愚問だった。楽しいと思うから楽しいのだ。理由はない。
大人になると余分なものを身につけただけ、その纏わりつく何かに意味を求め始める。意味や理由ばかりに気を取られてしまう。理由なんていらない。
ただこの場がうれしい。子どもたちの笑い声は新鮮で曇りがなかった。

でも、そんな緩んだ思いは一瞬で崩される。
バタンとドアを閉めた娘とひとりの友だちが階段を足早に降りてきた。私の顔を見ると、娘が「なに」と恥ずかしさを隠すように怪訝な顔を向けた。友だちの女の子も同じ顔をしていた。
娘にも娘の外向きの顔があるんだろう。よそよそしさは、今わたしは友達の輪にいると父親の存在を拒絶していた。
確かにわたしはここに場違いだった。
そして、その場から逃げるように妻に救いを求めた。

「にぎやかでしょ」「急に決まったみたい」と、にこやかだった。
でも、きっと女子会が提案されてから娘とふたりですったもんだしたことだろう。妻も娘もこういう集まりは嫌いじゃない。でもその影には「誰々ちゃんの家はどうだった」と共有するライバル心があったことは容易に想像できる。こんな時、幼くても女同士の結束は固い。

賑やかな女子会が終わるまで父親は自分の部屋で潜んでいた。下手に顔を出せば小さな訪問者たちに値踏みされそうだったからだ。

小さくて可愛いくつたちが消えた後、玄関は静けさを増していた。タイルの上を軽く掃いて自分の黒い革靴を整えると途端に華やかさが消えた。

否定するように、足早に娘の元に向かった。

「どうだった」と聞いたら、「まあね」と娘の興奮は既に醒めてるようだ。
関心は父親だけに残っている。

きっと世の「女子会」もそんなものだろう。

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