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僕は美しい生き方をしているだろうか

世の中に綺麗なものやこと、そして綺麗な人は沢山いる。
でも美しい人は少ないと思う。
美しい人はその生き方が美しい。

「4色問題の証明は美しくない」

「容疑者Xの献身」という映画の中で、堤真一演じる天才数学者がこんな台詞を言っていた。

この言葉がどうしても気になり調べてみました。
以下、「YAHOO知恵袋」から

世界地図の国をできるだけ少ない数の色で塗りつぶすとします。ただし、フランスとドイツのような、国境で接している国は、同じ色で塗らないことにします。このとき、4色さえあれば、どのような場合でもすべての国を塗りつぶすことができる。これが4色問題です。ここでは、世界地図で考えていますが、どのような、地図(球体、平面)でも可能なことがわかっています。たとえば、日本の都道府県とかでも成り立ちます。

この4色問題は、コンピューターで解かれました。となりあう国境の条件を場合分けしてコンピューターの人より速い”計算速度”で証明したのです。数学証明も、物理の検証も、みんなが見て納得できるほうがいいに決まっています。そのため、できるだけシンプルで単純な方法がいいとされています。

たとえば、証明ではないですが、1から1000までの整数の和を求めるのに、1+2+3+4+....+1000=500500 とごり押しで解くよりも(1+1000)×1000÷2=500500 と公式に当てはめて少ない計算で求めるほうが、
かえって間違いがなく一種の”美しさ”を感じます。

数学の問題をごり押しのような形で解くのに感じるわだかまりを、
「美しくない」と表現しているのです。

まだはっきりしませんが何となくわかりました。
と同時に、この「美しい」という言葉自体に興味が湧きました。
そしてまた調べてみました。

「きれい」と「美しい」の違いです。

大きな違いは、
1・「きれい」は「清潔」という意味があるが、「美しい」にはその用法はない。(洗濯や掃除で「きれいに」はできるが、「美しく」はならない。
手を洗いなさい、ということを「手をきれいに」とは言うが、「手を美しく」とは言わない。)

2・「美しい」は観念的なものについて言うことができ、それは「心の琴線に触れる」ことを意味するが、「きれい」にはその用法はない。(彼とのことは今になってみれば「美しい」思い出だ。・・・これを「きれいな」では表現できない。)

以上のように、
「きれいな」は「清潔」の意味があるように、基本的には、外面的な見ためのよさ、快適さ。また「けがれのなさ」につながっていて、反対語は「きたない」です。

「美しい」は、美術・美学などの語が示すように外面だけではない、内面的な感動につながっていて反対語は「醜い」です。清潔さやけがれのなさ、とは結びついていません。

「YAHOO知恵袋」

僕は美しい生き方をしているだろうか
美しい生き方ってなんだろうか

こんな言葉が頭に浮かんできました。


悪いことはしない
人の悪口は言わない
清く正しく生きる

これは、きれいな生き方かもしれない。
でも生きている躍動感や内面的な感動につながっているんだろうか。

「怖いくらいに美しい」という言葉があります。

人の身体は極度に興奮すると、鳥肌が立つ。鳥肌が立つ状況や状態というのは、怖い時、寒い時、感動の極み時です。要は「鳥肌が立つほど美しい」という事です。「ゾクゾクするような美しさ」です。

人に感動を与えるような、人を動かすような、ゾクゾクとした生き方をしているだろうか。

まだまだ。
どこかで、「良い悪い」という「きれい」に拘っている。

少しづつ、少しづつ考えていきたいことです。


他を圧倒する生き方、あり方、存在

美しいというキーワードで探していたら、松原靖樹さんの【千式コラム】にたどり着きました。

人を殺生する日本刀が美しいと誰の心も打つことがある。誰かの感性や感情に訴えかけるのではない。普遍的に打つ。日本刀は人を殺傷するという目的のもと作られている。そしてその中でも究極に素晴らしいものは、その用途に基づいてこれ以上ない追求がされている。だから美しい。

茶道の茶碗も超高額なものは人を圧倒してモノを言わせない。芸術品はもちろん、建築も、自然も圧倒的なものは全てそうできている。これが美しいということだ。唯一無二であり、用途に応じて行き着くところまで行き着くし、さらにそれを超えると物事は美しくなる。

「アメーバオフィシャル 松原靖樹ブログ」

美しいものは、誰かの感性や感情に訴えかけるものではなく、その存在そのものが美しい。目的に対する究極的な追求が他を圧倒している。日本刀も茶道の茶碗も人を圧倒する。

「4色問題の証明は美しくない」という映画のワンシーンの台詞に始まり、
「美しい」と「きれい」の違いを考え「美しい生き方」という言葉にたどり着くました。


他を圧倒する生き方、あり方、存在

これが「美しさ」の原点かもしれませんね。

圧倒していますがこれは相手に押し込むものではなく、相手を静かに引き込む魔力、魅力のようなものでしょうか。

過去、人にこの「美しさ」を見たことがあります。
昭和の総理大臣 佐藤栄作氏です。

もう45年も前の話です。
正月2日、伊勢神宮に参拝した時にこの方に出会いました。出会ったといっても、取り巻きに守られ参道を歩く姿を父親の傍らで見ていただけですが…

顔がとても輝いていました。オーラがあるというか、後光が射しているというか、とても美しかったのを今でも憶えています。子供ごころに同じ人間か、と引き込まれました。

政治家としての手腕は別として他を圧倒する存在感がありました。静かに引き込む魔力、魅力のようなものを感じました。

「美しい生き方」とはどういうものか
他を圧倒する生き方、あり方、存在であること
様々な経験を積んだ後、簡潔でありシンプルであること
静かに相手を引き込む魔力、魅力のようなもの

今、こんなイメージが出来上がっています。


人間の器とはなんだろう

私はドラマが好きです。見ながら、楽しみながらいつも気にかけているのが脚本です。会話の中にちょっとした宝モノを見つけることがあります。

例えば…

以前注目されたTBSドラマ「JIN-仁」からのワンシーンです。
主人公である南方仁先生が、江戸で醤油工場(現ヤマサ醤油)を経営する
実業家浜口儀兵衛に言われた言葉の中にこんなせりふがありました。

「あなたの器は決して大きくないでしょう。しかし、とても美しい。
 だから皆が助けたいと思うのでしょう」



この中に出てくる“器”とは“人間の器”です。

そういえば、今まで人の器量を言う時、「人間の器」という言葉を使っていました。それは同時に器が大きい、小さいという話で、常にその人の器量を計るものでした。「人の上に立つ器がある」などもその一例です。

しかし、器には大きさだけでなく、美しさという別の観点があります。
そして中に沢山入れることは出来なくても、入れた料理を引き立てる役割もあります。

人間も同じではないでしょうか。

器に大小だけでなく、美しさという見方を増やせば同じ人にも別の面が見えてきます。

自分以外の誰かになろうとしない

なりたい自分を探しているとき、「誰々のように…」と思うことがあります。それは、憧れの姿であったり、現実からのないものねだりであったりします。目指す人がいるのは悪いことではありません。でも「誰々のように…」と対象にする「誰々」は、その人の今の姿です。

その人の「今」は、その人の歴史が作ったものです。あなたとは、明らかに「歴史」が違うのです。その人の性格や考え方、価値観はその人の過去からの産物です。過去の出来事から出来上がったものです。
出来上がった考え方や価値観をまねしても、その人にはなれません。また、その人と同じような出来事がこの先起きるともいえません。

では、どうしたらいいでしょうか?
自分なりの価値観や優れた部分、強みで「なりたい自分」になることです。自分以外の誰かになろうとしないことです。

自分と他人は明らかに違います。
なぜ違うのかと自分を責めても違うものは違うのです。でも、自分なりの考え方で、自分なりの出来る方法で、世の中に価値を生み出せば誰かのために生きることができます。そのとき、あなたが憧れた「その人」にあなたもなることができます。

言ってみれば、これが「なりたい自分の姿」です。そして「なるべきあなたの姿」です。表面的には、憧れた「自分以外の誰か」と違います。しかし、根底に流れているものは全く同じです。今度は、あなたのようになりたいと思う人が出てきますから。

 自分以外の誰かになろうとしない

わかっていても、ついつい自分と他人を比較してそうなれない自分を責めてしまいます。
そのためにも、自分特有のなりたい姿を見つけて下さい。

あなたにはあなたの時間が流れている


六十歳を過ぎても働かなければならない。
六十歳を過ぎて働くことに、「六十過ぎても働かなければならない」と、「も」をつければ否定的な意味になる。

六十歳から新しい生活に入ると思えば別の世界が広がる。
新しいことを始めなくても今までの歯車のギヤを変えることでも別の世界が始まる。

「定年延長」も「週三日勤務」も新しい世界と思えばいい。だから六十歳を過ぎても働かしていただける、とも思わない。

六十歳になったら新しい生活を始める。あと、何年と寿命を見通したカウントダウンはしない。

息子の親になって二十八年、三十三歳がスタートだった。今新しいスタートを。幸いにもこのスタートには過去の積み上げが役立ちそうだ。

積み上げたものは、「あきらめ」だ。自分ではどうすることもできないことを学んだ。どうすることもできない他人の感情に振り回され、自分を世の中に合わせ、世の中で成長することばかりを考えていた。

でも、もう勝手なことをやっていい。私はこういう人間だとあきらめて明らかにする。どうすることもできない心の裏には、「こうしたい」という意思があった。でもそれは過去からの積み上げた思い込みだった。

カウントダウンをして、もう何年しかない、もう何年しか生きられないからと考えるのをやめよう。

そのカウントダウンは当てにならない。

小学生の頃はカウントダウンなんてしなかった。水の溜まる水がめが満ちていく様が見えたなら新しい水がめを用意すればいい。中に満たす液体も水から他のものに変えればいい。

そんなことを想像していると今までとは違った全く新しい世界が見えてくる。見えてこない時は、自分の心の眼をもう一度疑ってみる。他人と同じ老後を見て、他人を羨んでいないだろうか、孫に囲まれて、適当に好きな旅行に行って、仲間と楽しんで・・・

目に観えた世界は自分から始まっていない。もう一度自分から始めよう。

「あなたにはあなたの時間が流れている」

高倉建主演の映画「あなたへ」の中で、亡くなった妻、田中裕子から送られた絵手紙に書かれていた言葉です。


美しい生き方でなくても、いのちを全うすることは出来る。
求めた楽しさは自分を満たすことが出来る。
でも満たされるのはじぶんだけ。

美しい生き方は他に影響をあたえる。
他とは、同じときを生きる人ばかりじゃない。過去に生きた人から何かを貰い、未来に勇気をあたえる。

僕はいま、美しい生き方をしているだろうか。

女優の石田ゆり子さんがこんなことを言っていた。

「ずっと前から思ってた。本を読んでいる人の姿は美しいのに、スマホをいじっている人の姿は美しいとは思わない。」

FacebookもTwitterも、読めば心が震える。でも、その震えは怒りであれ、歓喜であれ、意図的に増幅されたものだ。文字というより胸に刺さる刃物のようなものだ。

読書は読者まかせになる。だから、読者の数だけ見える世界がある。言葉が異臭を放つこともあるが、心の震えを抑える役目も果たす。

SNSの言葉は、喜びであっても怒りであっても口語に近い。それでいて扱う文字は稚拙なものが多い。まったく美しくない。だから言葉から何も生まれないし風景も浮かんでこない。だだ情報としてその場の感情を垂れ流している。
 
ここに、オードリーヘップバーンの名言がある。

「美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい」

美しく生きていくための知恵のような気がする。


#創作大賞2023  に参加しています。


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