【短編小説】マルシェの椅子/イニシャル


 Cafeマルシェは、八ヶ岳山麓の小さな集落のはずれにある。古い鉄骨プレハブの建物で、中は結構広い。何かの工場だったらしいが、色々古びたものが大好きなマスターが、持ち前のセンスを駆使して、全てDIYでリフォームした。
 古びた家具調度、特に使い込まれた椅子の数々が目を引く。そして、お客が、エントランスで扉を引くと、ガラガラという音が、建物内に響き渡る、そんなちょっと変わったカフェだ。

 東は近所で木工房を営んでいる男で、午後の一服の頃になると毎日のようにフラッとやってくる常連客だ。50代のマスターと歳が近いこともあってか、いつもコーヒー飲みながら居心地良さげに他愛もないことをおしゃべりして帰る。

 彼は、その日もカウンター席に着いたが、あいにくにも、直前まで居たグループ客の後片付けでマスターは大忙しだった。
「東さん、ちょっと待っててね。」と、ちょっと離れた洗い場の方からマスターがいうと、
「ああ、いいよいいよ」と東が応えた。が、おしゃべりの相手がいないカウンターはすぐに暇を持て余す。東も店備え付けの雑誌を広げてみたり、スマホを出していじってみたりしていたが、それもすぐに飽きて、店の中をボーッと眺め出した。
 その時、一脚の椅子が東の目に留まった。
「マスター、椅子の新米が入ったね。今回はどこから?」
マスターは、東の視線の先を見て、ああ.…という顔をした。
「この間、神奈川の厚木に行ってね、そこでたまたまのぞいた古道具屋にあったんだよ。帰り重くてねぇ、大変だったよ。」
「本当に重そうだね。いつもの好みとかなり違うような気がするけど、なんでまた?」
「...んん、わからない。気がついたら、話が決まってたというか... でも、結果3000円になったから、まぁいいかなと思ってね。」
「3000円! そりゃまたバカ安だね。」
「店主曰く、重すぎて邪魔だから、もう店に置きたくないんだってさ。随分長いことお店の隅でホコリ被っていたらしいよ。」
「そりゃまた、かわいそうな椅子だね。行き場を失った椅子というわけね。ついにcafeマルシェは、椅子の駆け込み寺というわけだ。」と言って東は笑った。
「勘弁してよ、そういうこというと変なのがいっぱい集まって来そうだから。」
 そう言ってマスターも苦笑いした。
 そのうち、東はその椅子のそばに行きじっくりと眺め出した。仕事がら家具、特に椅子には興味があるのだ。

 それは、楢の木で作られた肘掛け椅子だったが、角ばったデザインで脚や座面や背板にちょっと多過ぎるくらいのボリュームがあって、如何にも重い感じだった。それに、見た目にも陽焼けが進み、小さなキズや擦り傷もたくさんあり、かなり古びた感じだったが、東はそんな様子の椅子を見て、
「それにしてもよく使い込まれているなぁ…」と呟いた。
 後片付けが一息ついたマスターも横に来て、「ただ古いだけじゃない?」と横槍を入れた。
「いや、そんなに古くはないよ。せいぜい昭和50年代…かな。」
東はさらに続けた。
「この手の椅子は、工場で量産されるような椅子じゃなくて、工房とか手作りとか、そういう中で単品製作されたものでね。作り手の思い入れやこだわりが強過ぎてあんまり実用的じゃあない場合が多いんだよ。だからこんなに重くても平気で作ってるわけさ。すごく木が好きとかいう人には受けるかも知れないけどね。ま、使ってるうちに飽きちゃうと思うけどね。重過ぎて大変だもの。いずれただの置物か飾り物、か、納戸の奥深く、だね。」
東はさらに続けた。
「ただこの椅子はよく使われているね。きっと、毎日毎日座っていたんだろうね。使い込まれて醸し出されたいい感じの匂いがプンプンしている。余程好きだったんだな。」
「なるほど。」マスターは、喋り続ける東を見てそれだけ言った。
 すると東がまた続けた。
「マスターだって、この使い込まれた雰囲気、好きでしょ。だからこの椅子はここに来たんだよ。ここに来るべくしてきた椅子だね。大事にしてやんなさいよ。」
「…まあね。」マスターは、なんだか東に勝手に決められたような気もしたが、まんざら間違いでもないようなのでとりあえず納得した。

「ところで、このR.Zっていうのなんだろね?」と背板の正面に少し大きめの文字で彫り込まれているアルファベットを指して、東が言った。
「たぶん、イニシャルだと思うけど…、なかなかかっこいいだろ?」とマスターが文字を撫でながら言った。
「メーカーのロゴか、それともイニシャル?」と東。
「ロゴだとしたら、真正面にこの大きさは、ちょっといやらしいだろう。きっとイニシャルだよ。」とマスター。
「なるほど…、でも、イニシャルだとしたらRから始まる名前はままありそうだけど、Zから始まる苗字って何だろう? あるか?」と東が天井を見ながら言った。
 それから、しばらくの間、二人はこの話で持ちきりになった。
 Rは、良一、良太郎、龍之介…などなどポツポツと出たが、結局、苗字のZは、なかなか思いつかなかった。
 しばらくして、
「あーっ、もうやめやめ、どうでもいいことだからもうやめ。帰る、ご馳走さん、またね。」東がそう言うとコーヒーの回数券をだした。
「じゃ、Zは次来るときの宿題。」とマスターが返した。

*****

 その日は朝からよく晴れているのに、何となく物憂い日だった。お客さんも疎らで、お昼のランチタイムでさえ10人程度。午後2時を過ぎると全く人足は遠のいた。
 マスターは、手持ち無沙汰に窓越しの南アルプスの方をボーッと眺めていた。ここからだと、南アルプス前衛峰の地蔵が岳あたりがよく見える。特にそこのオリベスクに自然と目がいった。お店が暇な時のいつものパターンだ。

 3時も過ぎた頃、お店の扉がゆっくりと開いた。ここの扉は鉄板の吊り戸なのでちょっと重い。そして、ガラガラと音もわりと大きい。マスターは、一瞬ドキッとした。暇な時は、いつものことなんだけど、その日は特に驚いた。と同時に、我に返り、すぐにお客さんへの対応姿勢をとった。
 開いた扉の向こうには、小柄で白髪の品の良さそうな老婦人が立っていた。自分の開けた扉の音に驚いたのか、鉄扉の吊り元のあたりを見上げていた。
「いらっしゃいませ。ごめんなさい、扉重かったでしょ。」
マスターは、お客さんが老人であることに気がついて、咄嗟にカウンターの中から ねぎらった。
「いえいえ大丈夫よ。でも、面白い扉ね。上から吊っているのね、それに楽しい音。」おばあさんは、そういって微笑みながら入ってきた。
「どうぞ、お好きなテーブルに。」
 おばあさんは足を一歩踏み入れると立ち止まって何か探すように店内を見渡したあと、窓際の二人がけのテーブルに目を止めてちょっと頷くような仕草をした。そして近づき、あの重そうな木の椅子の背凭れに手をかけて二、三回そっと撫ぜた。優しい顔をしていた。
 マスターはお冷を用意して、彼女が席に着くのを待っていたが「おやっ?」と思った。あの椅子に縁のある人かなと思ったのだ。

 おばあさんと一括りで呼ぶには、ちょっと申し訳ない気がするとマスターは思った。老いたご婦人といったイメージだった。小柄だが、気品が漂っていた。椅子に触れた時の物腰の優しさ、とても単にその椅子が気に入ったというような感じではなかった。きっと縁のある人なんだと直感したのだ。

 しかし、その夫人は、その椅子に座るかと思ったら、テーブル向かい側の小ぶりな小椅子の方に座った。ちょうど重い椅子とはテーブルを挟んで向かい、マスターの方には背を向ける形になった。老婦人の表情は見えなかったが、その重い椅子に向かって何か話しかけてるようにも見えた。

 マスターは、注文を取りにそのテーブルに向かった。
「ご注文はお決まりですか?」
 老婦人はずっと重い椅子の方を見つめていたが、ハッと我に帰ったかのように振り返り、
「あら、そうね。それじゃ温かいミルクティーをいただこうかしら。」
 老婦人は、穏やかな表情でそう言った。
「かしこまりました。少々お待ちください。」
 マスターはすぐに下がってカウンターに立った。

 マスターは、紅茶を入れながら考えた。ふだんはあまりお客のことを詮索をしないたちだが今回は気になった。
もし、あの椅子の所縁の人ならどうしようかとふと考えたのだ。また、どんな所縁で、どんな風に自分の元に辿り着いたのか非常に興味があった。そんな経緯が判明するなんてまずないことだ。
 ミルクティーをテーブルに出した時彼は思い切って聞いてみた。
「お待たせしました。ところで、その椅子とは何かご縁があるんですか? あ、すみません、立ち入ったことをお聞きして。もし差し支えなければと思って...」
「あら、わかりました? そうよね、私がずっと撫ぜていたからですね。」老婦人は微笑みながら応えた。
「実は、私の主人が使っていた椅子なの。」
「エーッ⁉︎」マスターは驚いた。正直、そこまで縁の深いものだとは思わなかった。マスターが驚いて言葉を失っていると、
「あら驚かしてしまったみたいね、突然ごめんなさいね。」とまた、涼しげに微笑みながら言った。

「でも、どうしてここにあるとわかったんですか?」と、マスターは率直に聞いてみた。
 老婦人は急にポカンとした顔になってしばらく考えている風だったが、
「あらホントだわ、私なぜわかったんでしょう? ....ずっと探していた気がするんだけど...よくわからないわ...きっと私もボケちゃったのね。」と言ってまた微笑んだ。
 人を食ったような言い方に、マスターは一瞬ムッとしたがそのままやり過ごして老婦人の話を聞いた。
「でも、間違いないわ。ほらこのイニシャル、主人のイニシャルよ。二人で信州を旅行した時にね、山奥の小さな家具工房でこの椅子を見つけて、主人がすごく気に入っちゃたの。そしたら、そこの職人さんが、イニシャルいれましょうか、なんていうもんだから、主人たらもう即決。目の前で、自分のイニシャルが彫られるのをうれしそうに見ていたわ。」そう言った後で我にかえったように、
「あらごめんなさい。私ったら一人でおしゃべりばっかり。」
 その話を聞いた後でマスターが言った。
「それじゃすごく大事な椅子ですね。もしお望みでしたらお手元にお返しすることもできますけど...」
「いえいえそうじゃないですわ。こちらで出会えただけで十分。これはこちらのお店のものよ。ごめんなさいね、つい嬉しくなっちゃって。」
 夫人は続けた。
「それに、ここにこうして収まってるのが本当に素敵。うちでも、この椅子を山の見える窓際に置いてたの。暇な時はいつも腰掛けて遠くの山を眺めていたわ、ずーっと目を細めてね。私、そんな主人の姿を見てる時間が大好きだった。ここからみえる山は高くて近くてずっと綺麗。だからここにきたのね、きっと。」
 さらに続けて最後に行った。
「だから、これからもここに置いてくださる?」
 急にふられてマスターは、「え?、えーもちろんです。」とマスターは一瞬たじろいだ。
「ありがとう、嬉しいわ。」夫人は微笑みながら「良かったわね。」と重い椅子の方に向かって言った。

 その時、お店の電話が鳴ったので、マスターはその場を外した。
電話は予約の電話で少し時間がかかった。そして、電話が終わってホールを振り返った時、老婦人の姿は消えていた。

 マスターは、ちょっと驚いたが、冷静に店内を見回した。でも、どこにも居なかった。お手洗いにも。あの重くて音の大きい鉄の扉を開けた気配は微塵もなかった。もちろん、他の通用口を通った気配もなかった。ここは何処を通っても必ず建具の音がするようなそんな建物なのだ。外に出たのであればすぐわかる。

 でも、マスターの脳裏に無銭飲食云々というような考えは一切浮かんでこなかった。むしろ、この状況が不思議に思えてならなかった。
 そう思いながら、重い椅子のテーブルに戻ると、テーブルの上には綺麗に四つ折りされたお札が置いてあった。マスターが手にとって広げてみると、何か違和感があった。最初はピンとこなかったが、すぐに伊藤浩史の千円札であることに気がついた。懐かしい千円札だなと思いながら、ほとんど口のつけられてないティーカップを片付けようと手をかけた時、そのカップの冷たさに思わず手を引いた。カップは、氷のように冷たかったのだ。マスターは、冷たいものが背筋を通り抜けるのを感じた。
「こんなに冷たくなるはずないじゃないか...」と独り言をいって気を奮い立たせようとしたが、その直後さらに全身が凍りつく思いをした。重い椅子のあのイニシャルが消えていたのだ。木彫りされて消えるはずのないイニシャルが、跡形もなく消えていた...
 マスターは、状況を全て理解した。ただただ不思議なこともあるもんだ、と思うことしかできなかった。

 夕暮れも近くなり、こんな体験をした後に、自分以外に人気のない店内にいるのは気が滅入りそうだったのでラジオをつけた。ちょうどニュースの時間だったが、しばらくして一つのニュースにマスターの耳は釘付けになった。

 そのニュースの内容は、今日の午後、横浜で地下に埋もれた明治時代のレンガ造りの古い下水道の一部が見つかり、その中で、ミイラ化した白骨死体が発見されたというものだった。遺体はすでに30年以上を経ていて白骨化していたが、氏名と連絡先の入った名札が傍にあり、身元はすぐにわかったという。それで過去の記録を調べたところ、昭和40年の地元新聞にこの人の記事が見つかった。
 この人物は、今回の現場から1キロほどのところに在住していた財前亮介という人物で、当時、この人については、認知症による徘徊から行方不明になり捜索願が出されていたが、結局発見されることなく迷宮入りの失踪事件となっていた。

 当時、昭和の高度成長期の中、何処でも盛んにインフラ工事が行われていたが、横浜という土地柄、明治時代以降の外国人居留地の付近では、このような下水溝跡などがたまに発見されることがあった。中には歴史的に価値あるものもあったようだが、ほとんどは埋め戻されたり壊されたようだ。
 財前氏は、工事で露出したそんな下水溝跡の一つに迷い込み、そのまま運悪く出口を埋め戻され閉じ込められたのではないかということだった。遺体は、お腹の上で指を組み、特に騒ぎ苦しんだ様子もなく焼きレンガの壁にもたれ掛かっていたという。
 神奈川県警は、特に事件性はないと見ているようだった。

 そんな解説の後、氏のお孫さんにあたる女性が自宅玄関先でインタビューに応じる様子が流されたが、その時点でマスターは確信した。今日来た不思議な老婦人に瓜二つだった。年齢こそ50代後半の若さで別人であることはすぐにわかったが、一目でごく近い血縁者と分かるほどに似ていた。

 お孫さんの話によると、氏が行方不明になった後、当時70歳だった氏の奥さんが、自分の年齢や体調も省みず毎日毎日探し回り、半年後、とうとう体調を崩して憔悴しきって亡くなってしまったということだった。いつも仲の良い二人だっただけに、子供心に不憫でしょうがなかったと話していた。

 マスターは、重い椅子の方を振り返って、小さく「良かったですね」と一言いってキッチンの後片付けにかかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?