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豊岡演劇祭2023 福井裕孝『インテリア』/y/n『カミングアウトレッスン』

《Documenting》20230917
豊岡演劇祭2023
福井裕孝『インテリア』
於:豊岡市民会館 ギャラリー
(2023年9月17日12時30分の回)
y/n『カミングアウトレッスン』
於:芸術文化観光専門職大学 C311教室
(2023年9月17日15時の回)

 豊岡演劇祭参加2日目。まずは福井裕孝の構成・演出による『インテリア』。市民会館の多目的室のような一室の中に、白テープで区切られた30畳ほどの空間が作られている。この空間はマンションかアパートの隣り合った2室を示しているらしく、枠内には衣類や本、観葉植物、ラグビーボールといった日用品がたくさん置かれている。
 まず、多目的室の外から扉を開けて入ってきた男は、客席から見て手前側のスペースで手を洗ったりトイレに行ったりラーメンを食べたりと、マイムで生活上の動作を再現する。男が会場から出ると別の扉から女が入ってきて、今度は向こう側のスペースでコーヒーを淹れたりタバコを吸ったりと、やはりマイムで生活上の動作を行なう。これを計3セット繰り返すわけだが、ポイントになるのは、女は入ってくるたびに中央に置かれているローテーブルを90度時計回りに回転させることだ。次に入ってきた男は、ローテーブルが回転していることに気づき、それに合わせて観葉植物や主要なインテリア、さらには彼の頭の中にある手洗い場やトイレの位置を修正する。2セット終わった時点――つまりローテーブルの向きが最初と真逆になると彼の混乱は深まり、めちゃくちゃな位置にインテリアを置き直したり、トイレやキッチンといった想像上の場所もおかしな位置関係してしまう。そして3セット目のラスト、女がすべてのインテリアをスペースの一隅に集め始めると、男と演出家が入ってきてそれを手伝う。これまで男と女が交互に作り上げてきた想像の部屋が解体されるとともに、演出家という我々が見えないものとして扱っていた存在も舞台に上がるわけだ。
 説明が長くなったが、ここで行われているのは、演劇的なイリュージョンの暴露である。通常、役者はここに部屋があり、トイレや手洗い場があるというていでマイムや演技を行ない、我々はそのイメージを受け取って頭の中に架空の部屋を作り上げる。想像のキャッチボールだ。しかし本作では、ローテーブルの向きが変えられたことによって、そこに置かれた雑多なものたちや会場の扉が、想像との関係を断ち切られる。このつながりを回復するべく男が奮闘する姿を見せることで、演劇におけるイリュージョンをあらわにするのが本作の核心である。
 後で知ったのだが、福井裕孝という人は松田正隆が主宰するマレビトの会の2017年作『福島を上演する』に演出部として参加していたそうだ。近年の松田の作品は、役者による「想起」や「マイム」を徹底的に追求する作風で知られている(参考:ステージナタリー/松田正隆×長島確「フェスティバル/トーキョー18」)。この『インテリア』もまた、松田の問題系のヴァリエーションであり、演劇におけるイリュージョンの利用の新たな可能性を探る試みと言えるだろう。
 ところで、豊岡市民会館はよくある地方の複合文化施設だが、直線や円を組み合わせた構造やコンクリート打ちっぱなしの外観は素晴らしかった。実は私が見たのは建物の裏側だけだったようだが、調べてみると京都大学の増田友也研究室の手になる建築物とのこと。次回は時間を取ってよく見たい。
 続いては、建物正面にある半円形のでかい構造体が特徴的な芸術文化観光専門職大学へ。橋本清と山﨑健太のユニット・y/nの『カミングアウトレッスン』。2020年初演作のリクリエーション版とのことだが、法改正などの時事的変化に合わせて一部セリフの内容を変えているそう。
 y/nは講義形式で観客に語りかけるレクチャーパフォーマンスを主な表現手段としているが、今作のテーマはゲイのカミングアウト。レクチャーを担当する橋本が、カミングアウトにまつわる話を観客に向かって語っていく。しかし中盤に差し掛かると、橋本の言葉を逐一英語に訳していた山﨑を指して、「この話というのは実は僕の話ではなくて、彼の話だったんですけど」と言い、そこから先は山﨑の英訳が先行する。この仕掛けによって、ここで語られているカミングアウトの主体がわからなくなる。
 同じようなことは後半にも起こる。本作に参加する前、観客は入り口で「あなたの欲望を教えてください」という求めに応じて自分の欲望を書き込んだふせんをホワイトボードに貼る。レクチャーの後半で、そのふせんを橋本が一枚一枚手に取り、自分にとってこれはあり、なしと判断していくのだ。上演後のQ&Aの時間で橋本が語ったところによると、性的マイノリティの欲望は常にマジョリティ側から間違っているとジャッジされるので、ここではマイノリティ側(かもしれない橋本)が観客の欲望をジャッジした、ということだ。つまり性的マイノリティ問題をミラーリングしている。そして観客の欲望は橋本にジャッジされることで、帰属の宛先を失う。これは「彼の話だったんですけど」という一言と同じく、主体を宙吊りにする仕掛けである。
 中盤の仕掛けも後半の仕掛けも、これを受け取るには観客の積極的な読み込み/考察が必須となるが、もっとスマートに観客の思考を促せるアイデアもありうる気はする。が、俳優が役を背負わずに客席に語りかけるこのレクチャーという形式は、それ自体が人々の興味をひきつける強度があるのだと実感した。もちろん、テーマのアクチュアリティや語り手の実力があるという前提の上でだが。
 本当はこの後に山﨑健太からおすすめされていたバングラ『習作・チェーホフ』を見る予定だったが、例のしょうもないゲストハウスでろくに眠れなかった上、灼熱の中を移動して疲れてしまい、干すことに。再演とのことだったので、二度あることは三度あると信じて……。かわりに『インテリア』を観に来た関西の友人一家と食事。友人は週末の時間を使って僕の個人誌のレイアウトを組んでくれた。ありがたい限り。食事後、みんなで城崎の名湯「御所の湯」に入り、小1の息子とキャッキャはしゃぐ。
 帰ってからひとり飲み直しているときに、ふと大島渚の『少年』にも城崎が出てこなかったかと思い、AmazonのPrime Videoで確認。記憶が正しかったようで満足する。

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