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「俺は悪くない」の反抗的態度の内側に何がある?(前編)

自分から謝らない

自分の武装解除の旅路で、最初に気づかされたのが「謝ろうとしない」という行動の裏にある構造だった。

若い頃から、自分の行動パターンとして「自分からなかなか謝らない」というものがあったように思う。

普通に考えると、悪いと感じたら謝るのは当たり前なのだが、以前の自分はとにかく、自分の非をなかなか認めなかった。

何かあっても、自分に非があると認めないと「自分は悪くないから謝らない」という行動を無意識に行っていた

他者から見たら「なんでこいつ、謝らないんだ?非を認めないんだ?」とふてぶてしい態度に見えていただろう。

この点は、以前から妻にもよく指摘されていた。

「謝らないよね」
「いや、だって俺悪くないし。落ち度があれば謝るよ」

相手のことを考えて、悪くもないのに「あ、ごめん」と無意味に謝罪の言葉を投げかけることのほうがおかしいのではないか?とも考えていた。

そうはいっても、妻とのやり取りの体験の中から、自分に落ち度がなくても場合によっては謝ることも必要だとも学んだ。

自分で自分を責めることの旨味

一方で、相手に指摘される前に「自分で自分の非を責める」ということも無意識に行っていた。

他者から何か言われるより前に「あー、俺はダメだ!」と大げさに自分で自分自身を責める、そして相手がそれ以上こちらに何も言えないよう自分で自分を痛めつけていた。

上のように書くと、あたかも狙ってやっているようにも感じるが、これらは完全に無自覚に行っていた。

実は「なかなか謝らない」「自分で責める」という2つの異なる行動は、いずれも同じ根っこから生まれているのだと気づいた。

それは「人に責められるのが嫌だ」ということだ。

責められるのが嫌

相手に自分の非を指摘される、つまり相手に責められることを無意識に極端に恐れていた。

人から責められるのが嫌だから、相手に言われても自分で非を認めないことでその痛みから逃れようとしている。

相手に責められるよりも、自分で自分を責めることで痛みを緩和している。なぜなら他者から責められるより自分で責めたほうが痛みは軽いからだ。

それほど、他者から責められることに抵抗があり、無意識にその痛みを回避しようとしていたようだ。

責められてるという認知を生み出すもの

人に何かいわれた時に「責められている」と過剰に反応してしまうこと自体もかなり不自然だ。

相手は単に事実を述べただけであっても、こちらが勝手に責められたという認知を行う。無意識に自分になんらかの非があると捉えていなければ、こんな反応は起きないはずだ。

顕在意識では「自分は悪くない」と捉えていても、無意識では「俺のせいかも、まずったかも」と捉えているからこその反応なのかもしれない。

つまり、相手の意図に関係なく、自分で勝手に責められたという認知をして反応しているだけなのだ。

そして、どこかで、自分の非を認めたくないという抵抗が走っている。だから、なにかいわれると、自分に多少でも落ち度があると感じてる場合は、相手の言い方に関わらず「自分が責められてる」と認知して「俺は悪くない」という反応を起こしていたらしい。

言い訳がとまらなかった日常

ここに、ひとつの事例を紹介する。ほんとうに些細な日常の出来事だ。

自分:(トイレに行く)
妻:「トイレの電気つけっぱなしだったよ」
自分:「いやー、XXXだったから消し忘れちゃった」
妻:「言い訳じゃなくて。。。」
自分:「いつもは消してるんだよ。今日はたまたまこんなことあってさ〜」
妻:「…」


最初の妻の一言は、文字通りに受け取れば「トイレの電気がついていた」という事実を伝えてくれたにすぎない。これだけなら「あー、忘れてた、ごめん」で済むはずだ。

しかし、自分の場合は、事実を伝えてくれた途端に、自動的に責められているという解釈が走り、自動反応が始まる。

「いやー、XXXだったから消し忘れちゃった」という言い訳だ。

人の指摘に過剰に反応し、言い訳を述べたり、悪くないと反抗したりする。これが、自分の内側の世界で無自覚に行われていたパターンだと気づいた時に愕然とした。

では、なぜここまで過剰に反応してしまうのか?この構造に気付かされた時にふと思い浮かべた昔の記憶があった。(後半に続く…)



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