見出し画像

見ること、その日常性 - 映画『セブン』感想


Prime Videoでデビッド・フィンチャー監督『SE7EN』(1995年)を観た。観たきっかけは、岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』の第三部にて言及があると聞いたからだ。一行目から堂々とこの映画のラストのネタバレをしており、先に観てよかった〜と胸を撫で下ろした。


以下ネタバレ有り



私たちにとって耐えがたいのは、苦痛が容易に想像されるにもかかわらず、「それ」自らが苦痛を表明していないこと、「それ」が「それ」でしかないということだ。「それ」に代わって、「それ」の苦痛を表明する主体となることで、私たちは「それ」を「それ」ではないものにしようとする。それによって、私たちは、「それ」が「それ」でしかないことの耐えがたさから逃れようとする。

岡真理『彼女の「正しい」名前とは何か』p.207


『彼女の「正しい」名前とは何か』第三部(冒頭の論文「蟹の虚ろなまなざし、あるいはフライデイの旋回」)は、単純に『SE7EN』の考察・批評としてもめちゃくちゃ面白い。本書は第三世界フェミニズムについて、私たちが「他者」を語る/騙ることの暴力性についての本なのだけれど、『SE7EN』ラストシーンでミルズに犯人を銃殺せしめた「それ」とはなんであるかを詳しく掘り下げることにより本論に繋げている。

この本はマジで読む価値がある素晴らしい評論であるが、ここではこれ以上取り上げない。しかし、以下の感想は、本書の『SE7EN』論に触発されて書いたものであり、その着想の少なくない部分が岡真理氏に依るものであることは明記しておく。

その上で、この有名な映画の感想なんて腐るほどあるのだろうが、あくまで個人的な記録としてここに残しておく。一度しか観ていないため、不正確な事実が羅列されているであろうことにも留意してほしい。



・完璧だった

刑事モノは好みじゃないとか言って途中まで舐めて観ててごめんなさい、参りました。観始めるときはつまらなくて寝落ちしないか心配してたけど、観終えたときがいちばんテンション上がって目が冴えていた。胸糞だとか陰鬱だとは感じなくて、ただその完成度の高さに驚愕して「これは凄い……やられた!!!」とニヤニヤしながらスタッフロールを眺めていた。

終盤、護送車内の網格子に隔てられたミルズと犯人を交互に映すショット。(もちろんラストシーンでミルズの座る位置が反転する)
護送車に乗る3人をヘリコプターが追いかけ、大きく視界がブレる双眼鏡越しにしか荒野に降り立った3人の姿を見ることができない、という構図。
ミルズと妻トレイシーが暮らす、地下鉄のせいで頻繁に揺れる新居。それを聞いて堪えきれずに吹き出してしまうサマセットを見て笑い出す妻。(妻がサマセットの顔を眺めるという構図もラストにはあまりにも倒錯した形で反復される)

軽く思い返すだけでも、このように幾つもの要素がラストに向かって丁寧に張られていたことに気付いて恍惚感を覚える。それらは最後に答え合わせがされることで意味を持つ「伏線」というよりも、作品全体の完成度に奉仕し、それ自体で意味を持つ要素の集合のように思われる。(同監督の『ファイトクラブ』における、タネ明かしされてしまえば「そういうことか〜」と笑ってしまうような構成とは正反対だ)


・何を映すかより、何を映さないかのほうが大事

連続殺人事件の凄惨な死体をご丁寧に一つずつ観せてくれて趣味悪いな〜イヤだな〜と思っていたが、箱の中の最後の死体がカメラに一切映らなかったことで、それまでの演出は単なる悪趣味や過激ポルノではなかったのだと悟った。

それまでの一連のグロテスクな死体が強く目に焼きついていればいるほど、われわれは届けられた箱の中身を、その凄惨でグロテスクな絵面を鮮明に想像せずにはいられない。ちょうどミルズがそうしたように。(それゆえに彼は最後の罪人とならざるを得なかった)

見ても見ないふりをすることと、見ていなくても見たふりをする(見たと思い込む=想像する)ことについての映画だった。

あまりにも綺麗にまとまっていて無駄がない。そういう作品は好みでないといつも言うが、ちょっとこれには参った。
終盤の流れが完璧すぎて、それまで文句を言おうとしていたことが全て意味のあったものに反転して口を塞がれる。刑事モノ・グロテスクな作品は嫌いだが、だからこそこの映画は高評価せざるを得ない。


・サスペンス性の排除

それから、いつ撃たれるかわからないようなハラハラドキドキのサスペンスもわたしが映画でもっとも苦手なジャンル・要素だが、終わってから考えてみると、この映画には結局そういった、暗闇や主人公の背後やカメラの死角から突然襲いかかったりするようなサスペンスフルなシーンがほとんど無いことに思い当たる。

黒人の容疑者の自宅にSWATが物々しく突入する緊迫感のあるシーンでも、彼らが最後に見つけたのはベッドに横たわりシーツがかかった人影である。シーツが掛かっていたのが重要で、暗い部屋の奥からいきなりグロテスクな変死体が現れるのではなく、「起きろ!」とさんざん銃で脅した後で──この時点でほとんどの鑑賞者がシーツの下は死体だろうと検討をつけている。すなわち心の準備ができてから──恐る恐るシーツがめくられ、想像通りのものが視界に入る。

FBIの情報から突き止めた犯人の部屋の前で、帰宅した犯人から発砲されるときも、まず廊下の向こう側に怪しい人影が現れ、サマセットがミルズに顎で合図するカットを挟んで(つまり鑑賞者にも十分な心の準備時間を与えて)犯人がやや間延びした動作で銃を取り出してようやく発砲する。

その後のミルズと犯人との追跡シーケンスも、場所が次々と移動したり、遅れて追いかけるサマセットのショットが挟まれたりと、手に汗握るアクションシーンというには冗長過ぎる仕上がりになっている。いちおう最後には車両の上(カメラの死角)から鈍器で襲われるが、これも、ミルズを物陰から映す不穏なカットをさんざん挟んだ後でようやく、といった有様だ。そしてミルズは銃口をこめかみに突き付けられるが、まだ中盤で主人公が死ぬはずもなく、あまりに緊迫感がない。

そもそも最初の肥満死体の取り調べからそうだった。スパゲティソースが立ち並ぶ暗い部屋の机の下を取り調べるミルズは「見ろよ……バケツがある」と言ってからバケツを覗き込み、吐瀉物を目にして悲鳴を上げる。ここも、ショッキングな表現を狙うのであれば「見ろよ……バケツがある」なんて前置きはせずにいきなり視界に(そして画面に)吐瀉物が入ったバケツを出現させれば良かったはずだ。しかし、「見ろよ……バケツがある」「中身は?」という冗長でサスペンス性を殺すやり取りを挟まずにはいられない。

そしてサスペンス性の放棄として象徴的なのは、真犯人ジョン・ドゥがクライマックス前で警察署の主人公たちの前に訪れて自首する展開だろう。一度犯人のミスリードを仕込み、一度追跡劇を繰り広げ、自室へ堂々と電話を掛けてきて声を晒したのにも関わらず、その顔、その正体だけは宙吊りにされて(suspended)いた真犯人。一体どんなヤツなのか、2人は彼を追いつめることが出来るのか──と鑑賞者にも、ミルズ自身にも期待させておいての「自首」という展開。警察署という「日常」にジョン・ドゥは丸腰でやってくる。「謎の真犯人を2人の警部が根気強く捜査し、機転と知恵を効かせて遂に追いつめる」という誰しもが思い描く"映画的"な展開は終盤に入る手前で脆くも崩れ去る。主人公が挫折することによってではなく、思いがけず達成してしまうことによって。

この映画にはこのように──見返せばおそらく他にも幾らでも──サスペンス性を意図的に排除したとしか思えない描写・展開・要素がたくさんある。

カメラという一定の画角に制限された機械で物語世界を映し続ける映画というメディアにおいて、カメラに映っていないところから脅威(あるいは奇跡)が突然襲いかかるというのは、本質的に有効な演出であるはずだ。サスペンスとは単なる映画の1ジャンルではなく、どんな映画にも原理的に内在する機構に他ならない。だからこそ、ハラハラさせられるのが嫌な自分(ジェットコースターもお化け屋敷も予防注射も人狼ゲームもソシャゲのガチャも大嫌いだ)は映画という表現形式そのものに一定の苦手意識があるのだが、本作ではなぜかあえてそれをしない。「猟奇殺人」「謎の真犯人」という、いくらでもサスペンスフルに仕立て上げられるストーリー設定なのにもかかわらず、実際の映像演出のレベルでは禁欲的なほどに決定的なサスペンス要素が画面から排除される。

こうしたサスペンス性の抑制は、当然ながら本作のテーマ※「本当の悪は日常と地続きだからこそ恐ろしい(=「この世はすばらしい」へのアンチテーゼ)」に直結している。映画は「カメラに映っていない部分」を必然的に喚起し続ける。そのサスペンス性=非日常性を努めて排除して、緊張感もカタルシスもない日常=現実へと画面全体を、物語そのものを瓦解させること。そんな不可能に思える所業を、この2時間の映画は高い完成度で達成している。

(※このテーマ自体は映画に限らずあらゆるメディアで古来から散々擦られ続けている陳腐極まりないものだが、本作の優れた点は、このテーマを映画というメディアの持てる要素を全て使って表現し切った点にある)

ハラハラドキドキの過激でカタルシスが待ち受ける"非日常=サスペンス"ではだめなのだ。退職間近のサマセットにとって凄惨な事件はもはや日常であり、殺人課に着任したばかりのミルズの事件(および現実)への向き合い方とは正反対だ。サマセットだけが箱の中の虚ろなまなざしを見れたのは、彼にとってそれが「衝撃的」でも「グロテスク」でも「非日常」でもなかったからだ。その意味で、サマセットはジョン・ドゥと同じ側に立っている。この映画の中心にいるのがミルズひとりではない理由、それは最後までミルズを「見る」者が必要だからだ。この世の残酷さを、非日常としてではなく日常として、カメラの外ではなく、その枠内でひたむきにまなざし続ける──I'll be aroud. と言い残し、スクリーンを見つめるわれわれの視界から消える者が。



□  □  □  □  □  □  □  □ 



グロテスクな映像・写真を、敢えてカメラに映さないことで想像を喚起させる手法は──いくらでもあるが──例えばボラーニョの小説群も同様である。しかしながら、視覚に多くを依っている映画と、視覚その他のイメージを全て文字による「語り」で実現する必要がある小説では、残酷さやホラー・サスペンスの文法はかなり異なる具合であるだろう。




サスペンス要素に限らず、ドラマチックで"映える"要素をわざと抑制している(のだと解釈することで上手く落とし所が見つかる)映画がわたしは好きだ──そのようにしか映画を楽しめない──と感じる。ストライクゾーンが狭いというより、教養が欠けていて、作品を楽しむための手持ちの道具が少ないのだろう。

これも日常性=しょうもなさ=映えなさ=非サスペンスについての映画(論評)だった。

これも(人生のしょうもなさという絶望)

これも・・・(逆に、嫌でもドラマチックになってしまうこと、その暴力性への無力感と絶望感)

これは映画じゃないけど・・・(非日常性・ドラマ性を負うヒーローでなくともよい、という、人生のしょうもなさへの賛歌か)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?