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受験失格

今までの人生で受験ほど嫌なものはない。
今まで何度もトラブルを経験してきたが、理不尽度で言えばトップ5に入る。

私は親の転勤で日本、中国、アメリカで計5ヶ所に引っ越した。そのおかげで最も対策していた高校受験は受験できずに終わってしまい、最も対策していない海外大の受験は見事失敗してしまった。しかし、失敗と言っても私はあまり失敗とは思っていない。長い目で見れば自分にとってプラスになるような失敗だったのではないかと思っている。

そのことはさておき、これから海外大受験を目指す人たち、海外大受験を終えた人たちに向けて私の海外大受験体験談をここに記したいと思う。かなり特殊なケースなので、多くの人に役立つかはわからないが、ぜひ読んでいただきたい。

私は小さい頃にアメリカに数年住んだことがあり、その頃は日本語より英語が得意なほどであった。しかし、日本へ帰り、それから中国へ引っ越すなどして10年近く英語をほとんど使わなかった。そのおかげで再び高2(Junior year)の頃にアメリカの高校に転校した際は英語をある程度は話せたもの、すべて英語の環境で暮らすことに苦戦した。もともと日本の大学に行くつもりだったこともあり、当時の私は米国大出願についてほとんど知識がなかった。そのため、この時にしたさまざまな選択に後々後悔することになる。

例えばクラスを選択することである。私はAPを一切取らず(正確には取らせてもらえなかった。なんとか交渉して取らせてもらうべきであった…)、food scienceなどの自分の興味に関係なく、一切勉強せずにAが取れるクラス(評価してもらえないクラス)ばかりを取る羽目になってしまった。

また、自分の行きたい大学などを詳しく調べたり、実際に訪れたりすることをしなかった。実際に自分の行きたい大学をしっかり知っているかということはおそらく大学側もエッセイなどを通して感じ取ることができるのだろう。

そのほかにも私はテスト勉強をしなかった。TOEFLはテスト直前に少しインターネットで問題を探して解いたぐらいで、SATは友達からもらった問題集をずっとやろうと思っていたが、テニスのシーズンが始まり、忙しくてほとんど勉強できなかった。

このような計画性のなさはかなり致命的であった。それは後々の過程に大きく響いた。

エッセイを書く際もcommon appのエッセイ以外に大学固有のsupplemental essayというものを書く必要のある大学があるが、しっかりと自分の行きたい大学を絞れていなかったため、そのエッセイに多くの時間を割かなければならなかった。

そんな中でもTwitter上で無料でエッセイを添削してくださる方など、本当に心優しい方々のサポートでなんとか大学出願まで辿り着くことができた。(余談だが、一度エッセイを有料で添削していただいたが、その添削より100倍はTwitterで添削していただいた方の添削の方がよかった)

しかし、TOEFLやSATなどのテストスコアもトップ校を狙うには低いかもしれないが、decentなスコアを取ることができ、エッセイも添削のおかげもありだいぶ質が上がった。

それでも結果として希望する進学先からの合格は頂けなかった。もちろん努力が足りなかったのだろうとは思ったが、友達や知り合いなど、実際その人がどんな人かを知っている人たちがどんどんトップ校に合格していってることを聞くと、それもどこか違うような気がしてきた。

少し話が脱線してしまうが、私は小さい頃からテニスをしてきた。小学生の頃は県大会で準優勝するなどある程度実績を残してきたが、さまざまな出来事があり、大きくなるにつれテニスよりも学業面に時間を費やすようになった。そんなこともありながら、再びアメリカに引っ越した際に恵まれた環境でテニスをできるようになったことや、怠惰な自分に対する嫌気からテニスをたくさんするようになった。その結果高校のテニスシーズンでは州の上位に食い込む良い結果を残すことができた。それでも結局テニス推薦で大学に行くことはできなかった。多くの大学から声をかけていただくことはできたが、自分の行きたいような大学からは声をかけてもらえなかった。一校だけ某財団の指定校に入るような大学から声をかけていただいたが、結局wait listとなってしまった。そんな中、自分と対して実力が変わらない人が親が大学に大金を払いGeorgia Techにcommitしたり、自分より実力がない、学業面でも大差ない選手がJohns HopkinsやMITにcommitしたりするのは精神的に苦しいところがあった。テニスから戻って、一般で出願した人たちはどうだったかを述べたい。

私はよく日本の受験制度を批判する意見の中で日本とアメリカを比べるものを聞くことがある。AO入試などを実施する大学も増えてきたが、日本は一般的には学力のみを測って合否を決める。それに対してアメリカは成績、学力、エッセイ、課外活動など受験者を総合的に一人の人間として評価してくれる。しかし、私の実感では結局はそのようなものは何も正しく評価していないように感じる。エッセイや課外活動などは有る事無い事いくらでも書ける。読む人はそれが本当に熱心に取り組んできた活動なのかわかるという人もいるが、実際にアメリカでトップ20に入るような大学に合格した人たちで、適当に課外活動欄に書くためだけにさまざまな活動をしている人、エッセイで全く思ってもないことをあたかもやったかのように書いた人たちばかりである(もちろん正直に自分の今までの活動を書いて合格している人もいる)。例えば私の通っていた高校の生徒会長である。彼は常にテストや提出物の抜け道を見つけてきた(ある意味才能だと思う)。提出物はplagiarismをdetectされないようにズルをし、テストではテスト当日は休み、振替テスト(別室で受けることができる)の際に携帯を持ち込んで答えをインターネットで調べていた。そのような無益なことをしている人たちが私の知っている限り、大量に合格している。もともと私はアメリカの受験制度の方が日本よりいいのではないかと思っていたが、今回の経験を経て、その考えに自信を持てなくなってきた。もちろん狙い通りにうまくいくのであればアメリカの受験はいいが、理想と現実は違うようだ。それならば、ある意味テストスコアのみという公平な日本のような受験制度も悪くはないのではないかと思う。

最終的には大学受験というものをなくすことがいいのではないかと思う。数字と文章だけでこの人は将来有望だと決めることはできないだろう。そもそも決める必要もないのではないだろうか。そのため、私は、自分の興味分野を学べる大学にみんな入ることができ、そして個人個人に合わせたレベルのクラスをとる。例えば脳に興味があれば脳科学大学のようなものに入ることができ、その中で興味のある授業(大脳生理学入門など)の自分に合わせたレベルのクラスを取る。料理人になりたければ料理人大学に入り、揚げ物の極意などのクラスを自分に合わせたレベルでとる。これを実現するには大きな変革が必要だろうが、もし実現できればより社会が発展できるようになるのではないだろうかと私は考える。

最終的によくわからない文章になってしまったが、これが私がアメリカの大学出願を通じて感じたことである。詳しく話せばまだまだ思うところはあるのだが、一晩の勢いで書くのはこれぐらいが限界なのでここで締めさせていただきたい。

これから海外大受験を目指す方たちは計画的に、現状の制度をよく理解してそれに合わせたプランを立ててほしい。そしていずれかはこの受験の仕組みそのものを変えてほしい。

私も受験の仕組みを変えたいとは思うが、それ以上に私を魅了する「意識」「自己」などの問題がある。分野がかなり異なる問題を二つとも解決しようと思うのは少し傲慢なのではと思う。意識ついてもいつかはnoteを書いてみたいと思う。


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