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遊佐春菜 / 巨大なパーティー(JAH善福寺Remix)配信記念、高木壮太インタビュー(2016年)再掲載

KKV Neighborhood #126 Interview - 2022.04.01
インタビュー、構成:与田太郎

遊佐春菜「巨大なパーティー」の高木壮太によるリミックスの配信が本日よりはじまった。去年の8月にリミックスのオファーをしたら、なんと3日ぐらいでこの最高のトラックが送られてきた。このリミックスは2021年8月に亡くなったリー・ペリーの追悼ということで特別に引き受けてくれたそうで、井の頭レンジャーズのメンバーJAH善福寺としてもはじめてのリミックス作品となっている。相変わらず高木壮太のユーモアと毒は健在だ。近年はPARKTONE RECORDSを主催し井の頭レンジャーズやCAT BOYSの7インチを次々にリリースするトラック・メイカー、オルガン奏者として独自のスタンスで活動している。このインタビューはキリキリヴィラからリリースされた井の頭レンジャーズのアルバム『Rangers Patrol 1977~1982 UK!』発売の直前に公開されたものだ。最近になってCAT BOYSや井の頭レンジャーズを知った人にとっては謎の人物であろう高木壮太の広くて深い背景を知るのにはもってこいのインタビューとなっている。

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高木壮太ロング・インタビュー
2016年11月1日公開
インタビュー、構成 与田太郎

井の頭レンジャーズのプロデューサー高木壮太は最近では作家、もしくはツイッターで面白いことをつぶやく人としての方が知られているのかもしれない。 僕にとっては90年代からブルー・ボンゴスやソウル・ミッション、2000年以降はラブ・ミー・テンダー、現在ではキャット・ボーイズのオルガン・プレイヤーとして、そして何よりも混沌とした90年後半のパーティー・ライフを共に駆け抜けた友人なのだ。 彼が井の頭レンジャーズを始めた時まず僕が感じたのは、彼なりの音楽史や文化史を表現しているんだろうということだった。レンジャーズの音楽はサウンドのセンスやこだわりだけでなく、その時代背景や音楽的な成り立ちも含め意味があるのではないかと。 話は90年代の東京の昔話から子供の頃から憧れてきたイギリスのユース・カルチャーそしてダンス・カルチャーまでにわたる長いものとなった。このインタビューを読んでもらえると高木壮太という摑みどころのない人物の一端が垣間見れるのではないだろうか、かなり長いインタビューだがおつきあいいただければ幸いである 。

ー俺がはじめて壮太くんにあったのはいつだっけ?ブルー・ボンゴス、それとも沖野くんのソロのメンバーとしてだっけ?

高 オキシュンのメンバーのオーディション、外村さんと一緒に渋谷の音楽館に行ったよ。

ーそうだ、でもなんで外村さんと知り合いだったの?

高 外村さんブルー・ボンゴスでドラム叩いてたから。

ーえ、そうだったんだ。あのジャム・スタジオの人の前?

高 ガミちゃんははじめホーン・セクションでトランペットだったんだよ。当時は外村さんがドラムでベースはオートモッドの人だったの。

ーマジで。

高 当時はオート・モッドはもうないね、ジュネティック・ブードゥーかな。

ーあれは94年ぐらいだよね?

高 93年じゃない?

ーブルー・ボンゴスの結成はいつ?

高 知らない(笑)、もともとはヒア・イズ・エデンっていうテクノ・ポップのバンドで、元P-MODELの人がボーカルだったんだけど、その人が抜けてキャッツさんがブルー・ボンゴスにしたんだよ。

ーヒア・イズ・エデンでキャッツさんはなにやってたの?

高 サックス吹いてたよ、俺もヒア・イズ・エデン見たことあってダセエって言ってた(笑)。

ー壮太くんがブルー・ボンゴスに誘われたのは?

高 ブルー・ボンゴスがインストのバンドとして活動始めて、当時はキーボードがいなかったんだよね。そのころにはもう12インチだしてかな?それでLOUDかREMIXか忘れたけど雑誌にキーボードのオーディションするって出てて、それで行ったんだよね。でも俺いつも新宿ジャムにいたからガミちゃんは知り合いだったんだ。

ーそれでブルー・ボンゴスのメンバーになり、94年に沖野くんのバック・バンドのオーディションで俺と会うんだね。ワンダー・リリースからのブルー・ボンゴスのCDは95年だよね、てことは出会ってすぐブルー・ボンゴスは発売することになったのか。

高 でも1年ぐらいあったんじゃない。もう沖野くんのレコーディングとかもやってたし。オキシュンと二人でクアトロでやったことあるんだけど。デュオで、覚えてる?

ーQUEじゃなくて?

高 クアトロで、サイモン・アンド・ガーファンクルとかやったよ。

ー覚えてないなー、イベントだよね?

高 そう、イベント。だと思う、俺もちょっとあやふやだね。

ー俺、95年の夏以降、つまりパーティーに突っ込んでからの壮太くんのことは良く覚えてるんだけど、その前がけっこうあやふやなんだよ。

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ー壮太くんは徳島の出身だよね?東京に出てきたのは何年?

高 89年、天安門事件の年。美空ひばりが死んだんじゃなかったっけ?

ーそう、それと手塚治虫。二十歳ぐらいで上京して、たしかフレッシュっていうバンドで活動はじめるのが90年ぐらい?

高 よく知ってるねー、そうフレッシュ。その前に片寄とかゆらゆら帝国のドラムの柴田一郎とかとスタジオに入ったりしてたよ。

ー片寄くんと知り合ったのは?

高 俺が当時スタジオで働いてて、そこで知り合ったんじゃないかな、グレッチのギター持ってて。「俺ロッテンハッツっていうバンド始めたから見に来て」って言われて、行ったら新宿ロフトがギュウギュウ詰めで、すごい人気あって。

ーロッテンハッツの1stって俺ディレクターだったんだよ。

高 そうかー。当時新宿ジャムで10日間ぐらいやるイベントがあって、それこそヴィーナス・ペーターとかシークレット・ゴールドフィッシュも出てたような、なんていうイベントだったかなー?イズルくんとはそこで会ってるんだよ。それにフレッシュも出てたよ。

ーその頃、渋谷系が盛り上がりはじめた時期だよね。その頃、上京してすぐの壮太くんから見て東京のライブハウス・シーンってどういう風に見えてた?

高 そのころはイカ天だよ(笑)!ちょうどイカ天やってて。その頃は新宿ロフトに出演できたらロック・スターだと思ってたね。ロフトにでればポルシェに乗れるぐらいの(笑)。それにライブを見てもいないのに、宝島から出てたバンドの本、『ロッカーズ』とかをチェックしてどのバンドが凄いとかわかった気になってた(笑)。

ーそれよくわかる(笑)。

高 フレッシュのメンバーはブルー・ハーツの前身バンドのコーツのローディーやってたりしたよ。俺もブルー・ハーツは好きで、ヒロトさんが引っ越しするっていうんで物件の下見についていったことあるよ。俺渋公だかサンプラザでブルー・ハーツ見ましたよって言いながら(笑)。渋公とか野音でやってるロック・スターが風呂なしの部屋探してるから、えらい幻滅して(笑)。それが上京してすぐぐらい。 上京してすぐぐらいの記憶はあやふやだなー、フリッパーズ・ギターは好きだったよ。ピチカート・ファイブみたいだなって思ってたのは、宝島とかに出てた広告のビジュアルからかな。写真がかっこよくて、こいつら何者なんだって思ったね。『ヘッド博士』は何年?

ー91年の夏かな。

高 「グルーヴチューブ」のPVにはまったんだよね。

ーフリッパーズが91年に解散してヴィーナス・ペーターはその年にデビューするんだよ。

高 それは覚えてる、渋谷のWAVEの入り口に広告が出てた。ライブは見てないんだけど、別の流れで沖野くんとは繋がりがあったんだよ。その話してないっけ?

ー知らない、どんな?

高 徳島時代にバンドやっていた先輩がいて、その人がニューヨークでヴィーナス・ペーターのボーカルと彼女の取り合いになったって言ってて。その話がすごいんだよ。その人がニューヨークから帰ってきて代々木のマンションに住んでてベランダでタバコ吸ってたら隣の部屋にオキシュンがいたんだって。そんな偶然ある(笑)、凄い偶然だよね。そういうこともあってヴィーナス・ペーターには注目してたんだよね、仲間内で話題で。

ー徳島時代のことを聞きたいんだけど、シアター・ブルックのタイジとかは知り合いだった?

高 タイジは中学時代からの知り合い、俺のひとつ上で。タイジはキングギドラ・スーパーカメバンドっていうバンドやってて、超絶テクニックのギター小僧で有名で、マイケル・ジャクソンの「ビート・イット」のギターとか完コピしてた。

ーヴァン・ヘイレンね(笑)。

高 「ビート・イット」のギター・ソロをヴァン・ヘイレンより早く弾くって有名だった(笑)、地元のギター・ヒーロー。

ー高校生の時はなに聴いてた?

高 俺はもうその時点でルーツのほうに行ってたから、プリンスとかは聴いてたけど。メチャ渋いものばっかり聴いてた。

ー壮太くんの聴く音楽って同世代でもあんまり突っ込まないとこまで突っ込んできいてるよね、なにがきっかけでそうなったの?

高 普通にビートルズとかストーンズも聴いてたよ、古い音楽が好きだったね、なんでかな。俺たちの世代ってYMOで別れたと思うんだよ。小学校の時って6年生のクラスの1/3ぐらいは「ライディーン」のシングル持ってなかった?それでYMOで誰が好きっていうと、教授が好きな人はニューウェーブにいって細野さんが好きな人はみんなルーツに行くんだよ。 俺の場合はうちがロック喫茶とかをやってて親父がいっぱいレコード持ってたからはっぴぃえんどとかも全部あったし、細野さんのソロもあったからね。親父がはっぴぃえんど大好きで徳島によんだりしてた。

ーなるほどねー。

高 家にそういうレコードがいっぱいあったから聴くよね。それと徳島の音楽好きの溜まり場になってたレコード屋で知り合う先輩とかはみんなブルースなんだよ。憂歌団と仲よかったりして、そいうシーンがあったんだよね。みんな田舎で家が広いかったから、金持ちでハモンド・オルガン3台持ってる人とかいたしね。

ーコレクターがいるんだね。

高 そういう先輩たちと、あとアネキがいるからかな。アネキは洋楽マニアで、64年生まれなんだけど。どいうことしてたかっていうと、ベイ・シティー・ローラーズを空港に迎えに行くとかとかやってて。ヌイグルミつくってパット・マグリンに渡すとか(笑)。

ー楽器はじめたのは?

高 家にギターやオルガンがあったし、普通に弾くようになったね。俺録音マニアだったから、ラジオ番組作ったりしてたよ。架空のお便り読んだりして(笑)。

ーいまと一緒じゃん(笑)。

高 小学校の時からやってたよ(笑)、親父がオーディオ・マニアだったからテレコとかもいろいろあったし。

ー子供のころから変わってないのがすごいね(笑)。

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高 そうだね、英才教育じゃなけど親父がマリファナ吸いながらスピーカーを組み立てていて、超重低音がでるから聴いてみろ、みたいなことされてたね。

ーなるほど(笑)、ほんとに自由な家庭だったんだね。

高 親父のロック喫茶はユーカリって店で、いまでも徳島に帰るとお前の親父の店があったから長島の引退試合をみ損ねたって人がいるよ。 ある時ピートっていうLAのヒッピーが来て、うちにずっといたことがあって。タイダイのTシャツ着た本物のヒッピー。バック・パッカーなんだけど、あの時代に徳島なんかに来ないよ、そんなやつ。

ーいつ頃?

高 72~73年ぐらいかな、ロック・アンド・ジャズっていう看板だしてたから、それ見て来たんだとおもうけど。そいつが徳島の詰襟着てる学生集めてマリファナ振舞って、ジム・モリソンとジミ・ヘンが死んで、次はスライが死ぬ、みたいな話を田舎の高校生にしてたよ。俺はまだ小学生になる前だからその話はしらないけど、なんとなくピートの面影は覚えてる。フェリー乗り場まで送ったこと覚えてるねー。

ーベトナム戦争が終わるのが73年でしょ、まだそういうアメリカ人いたんじゃないかな?

高 そうだね。親父がほんとに音楽好きだったから徳島にハービー・ハンコックとかソニー・ロリンズとかよんでたんだよ。俺は見てないけど、V.S.O.Pツアーで来日してて、徳島は予算がないからソロ・ピアノだったらしいけど。親父がその時ハービーのアテンドしてたんだけど、彼が創価学会に入信したんで、ずっとその話だったって。親父はアンチだから、自腹切ってまでよんだ大好きなミュージシャンが創価学会ってことでショックだったらしい。いまでこそみんな知ってるけど、当時は衝撃だったらしいよ。 まあそんな感じで家にレコードが大量にあった。

ーなるほど、そういうバックグラウンドがあったんだね。

高 親父の影響は大きいかもね、「京都の丸山音楽堂にぱっぴぃえんどを見に行ったら、前座に村八分っていうバンドが出てて」みたいな話ばっかりしてたから(笑)。

ーおもしろすぎる(笑)。

高 普通は親父に反発するんだろうけど、俺は親父のレコードばっかり聴いてたよ。でもいちばん大きなきっかけはビートルズだよね。あとNHKで放送したモンタレー・ポップ・フェスとか、渋谷陽一が解説で、中学生の時にビデオが伸びるまで見たね。 中学生の時の最大の情報源はベスト・ヒット・USAだったね、それが最大の情報源、あとはポパイの音楽ページ。大貫憲章と今野雄二、森脇美貴夫、それと立川直樹の4人が書いてて、早かったね。パンク特集とかは音楽誌よりも早かった。

ーそれは高木完も同じこと言ってた。

高 俺はスケボーやってたからポパイを創刊号から読んでたんだよ、ほんとよく覚えてる。あのね、ジョン・ピールの紹介やってたり、ラジオ・ルクセンブルグとか海賊放送の特集やったり。それと同じ号にジャン・ジャック・バーネルが空手やってる写真が載ってたり。ピストルズもポパイで知ったよ、セックス・ピストルズっていう名前が衝撃的でしょ、キッスですら恥ずかしかった小学生時代に。 そのあたりはアネキがリアルタイムで追っかけてたから覚えてる。アネキが俺の髪型をジョニー・ロットンみたいにするって言って、当時はデップとかジェルを知らないから砂糖水でベトベトにされたりして(笑)。ツンツン・ヘアーになってスケボーやってた(笑)。

ー俺もピストルズは後から知ったから。

高 そうだね、パンクはクラッシュからだったね。

ーそれは俺も同じ、ジャムとクラッシュには間に合った。

高 ポパイの影響は大きいね。大貫憲章がモッズ・ルックを紹介してて、ピンボール・マシンの前にピン・ストライプのスーツ着たりして。ああいう写真はポパイでしか見れなかったね。ちょうど『さらば青春の光』が封切られたぐらいで。アネキがポリスが好きだったから、ロードショウに連れて行かれた。アネキはポリスの初来日の西部講堂に学校さぼって行ってたから。

ースティング出てるもんね。

高 中学生ぐらいからはアネキの影響がでかいね。クラッシュはベスト・ヒット・USAで見て、もう自分でバンドはじめてたから、「ロック・ザ・カスバ」のビデオでメンバーの楽器が繋がってるのが途中までカール・コードでその先がストレートだったケーブルが欲しくて(笑)。ポール・シムノンがフレットに色塗ってるとか、クラッシュはファッション・リーダーだったね。

ーよくわかる、ロッキン・オンは読んでなかった?

高 ロッキン・オンは読んでなかったなー、でも徳島だから時々フィルム・コンサートがあって、1000人ぐらいの会場でロッド・スチュアートとかイーグルスとかのビデオ見て、最後に渋谷陽一が出てきてカンパ集めるみたいなイベントに小学校のころ行ってたよ(笑)。

ーほんと特殊な子供時代だね(笑)、お姉さんはなにやってるの?

高 アネキはずっとチャラくて、田中麗奈のマネージャーやってたり。

ーマジ!

高 アネキはずーっとチャラかった。

ーあんまり会わないの?

高 最近はたまに会うね。でも母親は東京の人で、梅ヶ丘だから親戚もこっちが多いんだよね。子供のころは夏休みになるとこっちに来てたり。 子供のころに来てたから下北沢とか土地勘があるんだ。 そういえば、最近モッズの話で凄い話を聞いたんだよ。今年80歳になる伯母さんがいるんだけど、彼女が60年代にVANジャケットの社長の秘書やってて、66年にVANジャケットがこれからはモッズだってなってモッズ・ルックを流行らせるってことになって、彼女がロンドンに派遣されたんだよ。うちの伯母さんはロックとかを聴く人じゃないんだけど、ロンドンでトロッグスっていうバンドの密着取材したんだって。

ーすごいね、それ、「ワイルド・シング」だ!

高 トロッグスってモッズ・バンドじゃないけど、凄い話だよね。トロッグスといえばフリーク・ビートの総本山でしょ。日本人で見たことあるひとなんかほとんどいないよ(笑)。66年といえば全盛期だし。でもVANジャケットのモッズ・キャンペーンは不発に終わったんだって。66~67年ぐらいだと花柄とかフリルが流行ってて、フレッド・ペリーとかじゃなくなってる時期だったからね。

ー壮太くんの面白い話散々聞いてきたけど、トロッグスの話ははじめてだね(笑)。

高 レジェンド話といえば、子供のころ家の近くのジャズ・バーのマスターがゲリラで栽培してたマリファナを大量にうちに持ち込んで逮捕されたり、いろいろあったよ(笑)。大量のマリファナをうちの花屋が生花教室とかに貸してるスペースで乾燥させて、仲間に配って。そこで三味線をおしえているオカマのお師匠さんとかにも配って、「そんなにいいなら私も試してみるわ」なんて言って。それが全員逮捕されたり、俺は子供だから訳わかなくて(笑)。そういう大人の話いっぱいあったね、そのお師匠さんツイッターにいるんだよ(笑)。 その人が、もう70過ぎだと思うけど、金持ちでヨット乗り回してて、子供が安室奈美恵のバック・ダンサーで、それはいいとして(笑)。その人昔ロスに行って、アイク・アンド・ティナ・ターナーがコミューン生活してた家に遊びに行ったことあるんだって。 それが70年代のアイクだからドラッグがひどい時期で、部屋の真ん中にあるでかいテーブルにコカインを渦巻き上にしてあって、でかい蚊取り線香みたいに(笑)。それを入れ替わり立ち替わり屋敷に出入りする人が吸っていって、それがそこの時計代わりになってるんだって。レコーディングでもツアーでもかならずそれが用意されてるんだって、それに参加した日本人が徳島にいたって(笑)。 そんな子供時代に宅録や楽器をはじめて他の趣味ぜんぶやめて、漫画描いたりとか、スケボーとかもやめて音楽に夢中になったんだよね。 それが中学2年ぐらい。

ーそれはパーティーに出会うべくして出会ってるね。

高 最初レイヴに行った時、ウッドストックとかモンタレーとかさ、そういうことの意味が全部わかったからね(笑)。あのお客さんのフリーキーな踊りとかすごいノリだったじゃない。

ーそうだよね、60年代末のフェスの感じとかは俺たちにとって歴史上の出来事だったわけで、実際にウッドストックみたいな現場があるなんて思ってなかったから。そういう意味では90年代のレイブ、パーティー・シーンって人生で一番の衝撃だったかも。 97年にフジロックの一回目と同じ日に秩父の山奥でやったレイブに一緒に行ったの覚えてない?あのイチローくんがはじけた日。

高 覚えてる、プライベーツの延原さんとかがいたやつね。

ーあれこそがディープな混沌に飛び込んだ瞬間じゃん。

高 俺はずーっとLSDってものに憧れがあって、LSDなければジミヘンとかわかんないじゃないかって思ってた。でもなかなか手に入んなかったよね。92〜3年ぐらいに徳島のひとつ上のハードコア・パンクの友達が突然ゴアに行ったんだよね。そいつが「凄いよー!もうなにから説明していいかわかんないぐらい」っていいなが帰ってきて、「全身にボディー・ペインティングしてる外人が次から次に焚き火に飛び込むんだよー」みたいなこと言いながら(笑)。そいつがカセットを持って帰ってきて、当時はゴア・ハウスって言ってた、ゴア・トランスとはまだ言ってなかった。今おもえばハードコア・テクノとかなんだよね。

ーそれはたぶん「ジェームス・ブラウン・イズ・デッド」とか初期のプロディジーだよ。

高 そう、サンプラーで作った音楽って印象でトランスって感じではなかった。その前までハウスのパーティーとかには行ったことがあってクリスタル・ウォーターの「ジプシー・ウーマン」とかすごく衝撃的で。神宮前あたりのフランス料理屋が週末だけパーティーやってるようなやつで。

ーそういうのあったね、ガラージュ・ハウス。

高 ハウスはうちの弟が好きで、ハワイに留学してたんだけどハワイで知り合った大金持ちの韓国人とつるんでて、ロスまで行って豪邸のプライベート・パーティーとかに行ってたりして。そこで手入れにあって、手入れっていってもヘリコプターで警察がくるんだって。スカーフェイスみたいな体験した弟が強制送還されて、そいつがチャラくてジュリアナ・テクノみたいなのいっぱい聴いてて、当時彼が三宿に住んでたんだけど部屋に行ったらジュリアナのCDが20何枚全部あって。その中にハウスっていうCDが何枚かあって、89年ぐらいかな。ハウスって名前が凄いよね、カレーかよ(笑)って。

ー俺90年にニューヨークでクリスタル・ウォーターのライブ見てるんだよ、当時のガラージュって俺たちが90年代に飛び込んだレイブやトランス・パーティーでかかってた音楽とは違うよね。でもそれから2年後ぐらいにルーツが同じってことがわかるんだよね。パーティー・シーンに突っ込んで踊りまくってようやくダンス・ミュージックがわかってきたよね。

高 DJってものを知ったのはいつだったかなー?ハッピー・マンデイズの『ピルズンスリル』って何年?

ー90年、でも収録されてる「ハレルヤ」とか「ステップ・オン」とかのシングルは89年に出てるかな。

高 じゃあ、87年ぐらいかな、東京に出てくる前もこっちに遊びにはきてて、文化服装学園にかよってる友達が男3人ぐらいで共同生活してて、そこではじめてターンテーブルを2台ならべて、スリップ・マットの下にビニール敷いてさ。その時に「これなにやってるのって」聞いたら、これで曲を切れ目なく繋ぐんだよって教えられて、その時はじめてDJってものを認識したんじゃないかな。 その前に84年のグラミー賞でハービー・ハンコックの『ロック・イット』でスクラッチをはじめて見たかな、俺まだ子供だったけど。なにが衝撃って、うちは親父がレコード・マニアだったからレコードの扱いを厳しく躾けられてたから、「絶対に指で触るなとか、大事に扱え」って。そのレコードであんなことやったら、とか針が!とか思って(笑)。ほんと衝撃だったね。その前ぐらいにTVジョッキーの映画のコーナーで『ワイルド・スタイル』紹介してたのも見たよ。そこではあのグラフィティーがカッコよくって。

ーそうだね、あれいかにも外国の文化だったもんね。

高 あの地下鉄の落書きとかね、『フレンチ・コネクション』とか『狼たちの午後』とか70年代のニューヨーク・ロケの映画ってかならずあれが出てくるから、あのカッコよさがヒップ・ホップのカッコよさに繋がったんだけど。でもヒップ・ホップにはハマらなかったんだ、RUN.D.M.Cのアディダスのベロを出して履いてるのには驚いた(笑)、「スニーカーをあんなふうに履くんだー!」って。 ファッションってほんと重要。

ーそうだね、まずそこが入り口だよね、当時の日本は。いまじゃ考えられないぐらい情報がなかったもんね。想像力でカバーしてたというかね。ムーブメントとしてのパンクもサマー・オブ・ラブもものすごく憧れて、けれど、どれだけ想像してもほんとの意味はわからなかったことが95年にパーティーに突っ込んではじめて、「あー!これだったのか」ってわかったよね。

高 そうだね、あの時与田さんにイクイノックスとオデッセーに連れて行かれたもんね。そのちょっと前に、フールズってバンドがいて。

ー伊藤耕のフールズ?

高 そう、俺フールズとかゴッドとかが好きでライブに良く行ってたんだけど、あの人達ドラッグ好きじゃん。その頃フールズのベースのマーチンって人と伊勢屋で飲む機会があって。大先輩に話を聞くみたいな感じで、そしたら「こないだアメリカでグレイトフル・デッド見てきた」って言ってて、おー!って盛り上がったんだけど、その人が日本でもやってるよって言うのよ、アシッド食うパーティー。マジっすかー、って聞いて、その時一緒にいた吉村くんっていうフールズの追っかけがその話を聞いてゴアに行ったんだよ。

ーそうだね、経路はそれぞれ違ったりするんだけどみんな95~96年のレイヴにたどり着くんだね。そこにアコースティックがサウンド・システムやってたりして、それこそオリジナル世代のデッドヘッズだったり命の祭りとかやってきたサウンド・マンである小野さんのチームががイクイノックスとかの若いパーティー・オーガナイザーと組んで、いろいろ教えていったんだよ。レゲエやってるやつもパーティーに入ってきて、いい意味で混沌として面白かったよね、その集大成が1回目のレインボー2000。

高 与田さんはマンチェ経由なんでしょ。

ーそう。

高 俺はそこが決定的に違う、俺ロッキング・オン読んでなかったし(笑)。でもストーン・ローゼズのファッションやルックスから60年代を感じたけど。俺はずっと60年代のヒッピー・ムーブメントとかサイケデリックな感じが好きで追っかけてたんだよ。 ストーン・ローゼズの1stは買ったんだけど、1曲目がタルいんだよ、もっと踊れるもんかと思ってたんだよ。

ーストーン・ローゼズや当時のマンチェ・サウンドって60年代回帰なんだよ。

高 俺はハッピー・マンデイズは好きだったんだよ、ファンキーなループも多いしサイケデリックなサウンドだったし。ストーン・ローゼズもハッピー・マンデイズもマンチェが爆発した88年、89年より前からやってるよね。

ーそうだね、どちらも85年ぐらいからやってる。でもブレイクしたのは88年にイギリス中がレイブに狂った88年以降、あのパーティー感をバンドで表現してからだね。『This Is England 90』の通りだと思うよ。


高 そうそう、オープニンでいきなりラーズの「ゼア・シー・ゴーズ」が流れるの良かった。あの曲好きだったけど、使い方でほんとにあの時代の象徴なんだってわかった。

ー『This Is England』シリーズほんと最高だよね、俺もあの映画に描かれている主人公のショーンとまったく同じだよ。パンクや2トーンでロック聴くようになってスミスやニューウェーブからストーン・ローゼズ、そしてパーティー。『This Is England 90』に出てくる小さいパーティーってさ俺たちが行ってたレイブとまったく同じじゃん。

高 そう、「なにこれ、カルト?」みたいな(笑)。あれ舞台はロンドン郊外ってことになってるけど、原作はシェフィールドなんだよね。ほんとは都会だとスキンズはスキンズ、ゴスはゴスってかたまるけど、あのドラマの舞台は田舎だからタウンホールでパーティーがあるっていうとスキンズもゴスもパンクスもごっちゃで、あれリアルだよね。

ーしかもイギリス中にレイヴの波がきて、みんなエクスタシーで踊るわけでしょう。そりゃあカッコとかも関係なくみんな仲良くなるよね。そのあたりも俺たちは97年ぐらいに体験してるよね。当時ほんといろんな人がパーティーに来てたから。 96年にシュガー・プラントのレコーディングでフィラデルフィアに行った時さ、ニューヨークのトンネルでジュニア・ヴァスケスの48時間のパーティーに行ったの覚えてる?

高 覚えてる、中でプッシャーと待ち合わせして、俺と与田さんと2人でいったよね?ゲイ・ナイトでものすごい行列でなかなか入れなくて、ゲイ専用の入り口に行って「おまえらほんとにゲイならいまここで咥えてみろって」断られた時。

ーあの時、ニューヨーク・ハード・ハウスが一番盛り上がってた時なんだけど、ヴァスケスがハード・ハウスでガンガンに盛り上がってる時にいきなり音を止めてマッドネスの「ワン・ステップ・ビヨンド」かけた瞬間があって、パーティーってこれもありなんだって感心したんだよね。

高 あの頃俺はゴア・トランスにハマってたからジュニア・ヴァスケスの音スカスカだし、テンポ遅いし303も全然入ってないって思って。俺4つ打ちの音楽の入り口がゴア・トランスっておかしいよね(笑)。

ーそれは俺もそうだから(笑)。

高 当時もうライフ・フォースもやってて行ったけどテンポ遅くて、いま考えるとシカゴ・ハウスやデトロイト・テクノだったんだよね。ゴア・トランスって特殊な音楽だね。

ーそうだね、俺が『モーニング・トラックス vol.1』作ったのが97年で壮太くんがフラクタル・エクスプレス名義で2曲参加してるから、パーティーにはまって1年後にはもう曲作ってるから。

高 サイケデリック・トランスって言葉が出るちょっと前。

ー95年からの3年間、ほんとに毎年熱い夏だったね。よくみんなで海に行って音楽聴いたよね、焚き火しながら。あの感じなんなんだろうね。

高 当時のパーティーっていろんな人が来てたね。俺、パーティーに行くちょっと前に代々木公園のフリー・マーケットに行ってた時、ホコ天でミックさんのパーティーで踊ってる人たちみて「なんだこれ?カルトか?」って思ったもん(笑)。

ー壮太くんが最初に行ったパーティーってなに?

高 最初に行ったのが、マユリさんのパーティーでツヨシがまだ来日っていってたころのやつ。

ー場所どこ?

高 らせん状になってた、六本木のスピーク・イージー!アレックスっていうプッシャーがいて。

ーそうそう(笑)。ココロコのイクイノックス行った?

高 行った行った。

ーあの時もアレクッスがいて、みんなアレックスの前に行列つくってたよね(笑)。

高 アレックスは日本円で2,000万ためたら故郷のコロンビアに帰るって言ってた(笑)。

ーいやー、ほんと変なヤツいっぱいいたよね、どうしてるんだろうなー。さすがに今はあんな熱気のあるパーティーはないよね。

高 俺はメスカリートっていうバーによく行くんだけど、若いDJがゴア・トランスかけたりしてるよ(笑)。みんな武尊祭とかからパーティー行き始めたって人達、ちょっと下の世代。やっぱり95年がひとつのピークで、ロウライフやってた浜田ってやつが『1995』って本書くって言ってる。みんなに95年になにやってたかってたか聞くっていうオーラル・ヒストリー。

ー面白いね。

高 与田さんはなんでパーティーに行くようになったの?

ー大学の後輩がゴアに行って帰ってきて、凄いことになってるよって。それで渋谷のビームホールでやったキーエナジーに行ったのが最初。 94年にヴィーナス・ペーターが解散して、ロックはブリット・ポップが盛り上がるんだけどブリット・ポップがダメだったんだよね。それでアンダーワールドの初来日とかに行ってからのキーエナジー。ロックつまんないって思ってたんだよ。ほんとキーエナジー衝撃だった(笑)。

高 当時のレイヴって当日にならないと場所がわからないシステムだったじゃない、今の若い奴にそれ言うとみんなビックリする。夜中の12時に代々木公園で地図もらって、今日は日光か、みたいな。「マジっすか、そんなんで人くるんですか?」「そんなのありですか?」っていう反応だよね、それで現場につくと500人ぐらいいるし。あれは凄いよね。なんであんなに秘密にしてたの?

ーやっぱりヤバイからじゃない?それとイギリスのやり方真似たのかも。

高 『This Is England 90』でもレイブに行くのに地図の見方がわからないって出てきて、めちゃリアルだと思ったもん(笑)。

ーほんとだよね(笑)。当時の俺たちを見るようだよ。

高 俺はもうイクイノックスとかに行く前にフールズ方面のパーティーでゴルバチョフっていうの試して。

ーあった、あった!ゴルバチョフ!

高 4枚で顔になってて、ゴルバチョフのアザがあるじゃない、ゴルビーのレフト・ブレインってみんな言ってた(笑)。でも何百人もの人たちが大音量、それと野外でテクノで踊るっていうのは凄かったね。

ー俺はあの体験でほんとに音楽の力を知った気がする(笑)。ダンスって自分の意思が必要じゃない、しかも自由だし、こんなに楽しいものかって思ったよ。

高 そうだね、それまで行ってたフリー・ソウルとかイエローのJAZZ’INとかとはまったく違ったね。サイケデリックっていうのがね。それでようやくモンタレー・ポップ・フェスとかストーンズのハイド・パークで踊ってる人のことわかったから(笑)。

ーそれでパーティーに通い続けてるうちに聴く音楽もどんどん広がって自由になったじゃない。すぐにニール・ヤングとかデッド、ピンク・フロイドの良さがわかって。そのうちジャンルじゃなくて、自分の感覚で判断するようになって。そういう意味では感覚を広げてくれたし、音楽がより楽しくなった大きなきっかけだったよね。

高 そうだね、それまでラジカセとかで平気で聴いてたけど、音響ってものに目覚めた、それがでかいね。助走みたいなものだったのかな。ハマんない人もいたしね。

ー俺はいまでもあの現場で学んだことの延長にいると思う。いまだと昔のロックンロールでもパンクでもいろんな想像力働かせて聴けるし、それが楽しい。

高 俺はパーティーにハマッた時にはもうミュージシャンだったし、一度アイデンティティ・クライシスっていう感じがあった。だってそれまで聴いてた音楽とまったく違うものだったから、それまで自分が好きだった音楽とのすり合わせが必要だった。 結局、自然にできたんだけど。やっぱり反復する音楽が好きだと、ジェームス・ブラウンとかと一緒だなって、無理やりかもしれないけど(笑)。ハウスもトランスもすべてJBの延長線上だって(笑)。だがら黒人音楽とまったくシームレスだって思えた。

ーそうだね、あの3年間ほど音楽について真剣に考えた時期はないからなー。それを自分の意思で踊ることで体験できたのは大きい。最高の瞬間があるとその意味を考えるしね。

高 そうだね、音楽のオタクだったからパーティー終わったあとにいろいろ解析したりて。「ジュノー・リアクターと正反対な音楽はなんだ?」とか(笑)。そんな話をよくオガワ(sugar plant)として、ビーチ・ボーイズとかカーペンターズ聴いたら良かった、みたいな(笑)。そんなことばっかりしてたね。

ーバカバカしいけど、最高に楽しかったね。

高 あの体験がなかったらどうなってただろうって思うよね。

ー俺もそう。でももう20年前の出来事なんだよなー、昨日のことのようだけど。

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ーそれで井の頭レンジャーズについて、聴きたいんだけど。

高 ジャマイカの音楽は昔から好きだったの。

ーでもレゲエは好きじゃないよね?

高 そうなんだよー、クラシックとしてボブ・マーリーは聴くわけ。でもなんか、チーク・タイムの音楽みたいな気がして….。日本に入ってきた時はおしゃれな音楽だったとおもうんだけどね。高橋幸宏の『音楽殺人』ってアルバム好きなんだけど、スカの曲とか入ってて、スペシャルズもほぼリアル・タイムで聴いてたんだけど、う〜ん、どこから話したらいいかなー。スカとかレゲエとの出会いねー。

ー壮太くの言うスキンヘッド・レゲエってつまりUKレゲエってことだよね?

高 ジャマイカにはスキンヘッド・レゲエって言葉はない。

ーそう、だからUKのモッズ、ソウルボーイズ、スキンズたちが聴いてたスカ、レゲエ、まあダンス・ミュージックってことだよね。それって凄いリアリティーがある音楽だと思うんだよね。っていうのはテリー・ファーレイが55年、ウエスト・ロンドン生まれなんだけど、彼が音楽好きはみんなジャマイカの音楽聴いてたって言ってて。

高 そう、ポール・シムノンとかもそうだよね。団地にサウンド・システムが来てた。

ーみんな土日になると外にスピーカー出してパーティーやってたって、それでハマっていったって。

高 ロンドンってとにかくジャマイカ移民が多くて、『さらば青春の光』でもジャマイカ人の黒人プッシャーが出てくるし、サウンド・システムが身近にあったんだよね。調べたら50年代からあったって、ビートルズよりもずっと前なんだよ。

ー井の頭レンジャーズの音源がサウンド・クラウドにアップしはじめた時、選曲のセンスはほんと壮太くんらしかったんだけど、スキンヘッド・レゲエ、つまりUKのスカやロック・ステディーっていうサウンドを選んだのはなんでなの?

高 まずね、俺スペシャルズがあんまり好きじゃなかったんだよね、俺はセレクターとかギャズ・メイオールのトロージャンズが好きだった。スペシャルズとかUB40は違うなって思ってた。たてノリだし、キックが頭に入るんだよね。いまはジャマイカの音楽を系統的に聴くけど、スカとロック・ステディーの間に物凄い断絶があるんだよね。ロック・ステディーははっきり言ってレゲエの原型ですよ、横ノリでだし。それにほとんどカバー、ジャマイカって著作権がなかったからアメリカでヒットしたソウルとかポップスをジャマイカ・バージョンでどんどんレコーディングするっていう文化で、スカとはほんとに違う。でも実際スカとロックステディーの間にもグラデーションがあって、だんだんテンポがゆっくりになるのを掘ってたらスカでもない、ロック・ステディーでもないのがあって。スカはベース・ラインが動く4ビートなんだけどロック・ステディーはもっとベース・ラインを刻みはじめるんだよね。ミュージシャンのラインナップも断絶してるんだよ。ロック・ステディーになってスカタライツの半分は失業したからね、エレキベースの時代になるし。 なんでハマったのか…。 日本でも一時期スカがはやったよね、スカっぽいロックも、レピッシュとか。でもスカってさカバーのセンスが大事で、スカパラがセサミストリートのテーマをカバーした時にやられた!って思ったんだよね。

ー80年代中頃ね、トロージャンズが「リンゴ追分」やったり。

高 あれはいろんな説があって、なんでジャマイカ人が「リンゴ追分」知ってるかっていうとマーティン・デニーが最初なんだよ。あれはラウンジ・ミュージックとしてマーティン・デニーがカバーして、それをスカタライツがやったんじゃないかって。

ーそうなんだ、俺はてっきりギャズが普通に美空ひばり聴いてやったんだと思ってた。

高 スカタライツのヴァージョンはマーティン・デニーのカバーらしいよ。

ー80年代中旬にスカが日本でも盛り上がって、トロージャンズやポテト・ファイヴがインクスティックに来て、スカタライツが再結成して野音でやったり。

高 そうそう、汐留ピットとかでもやった。でも俺はけっこう冷ややかだった。それよりもファンクから入ってるから、MG'sとかミーターズとかのオルガン・オリエンテッドなファンク、オルガンのインスト・バンドばっかり探したりして。今思えば当時もディープ・ファンクとかあるんだけど、当時はケブ・ダージみたいなDJもいないから。だから自分で掘ってたらジャッキー・ミットとかアップセッターズの初期とかを掘り当てて。そういう流れで好きだったけど、とにかくなに買っていいかわからなくて。レゲエとか踏み入れられないから(笑)。 それでニューオーリンズ・ファンクとかのほうからレゲエに、90度ぐらいの角度で入っていった。ジャマイカはずっとジャマイカン・ミュージックっていう本流があったところに横から69年ぐらいにニューオーリンズの音楽が入ってきて。ニューオーリンズのラジオがジャマイカも入るんだよ。リー・ペリーはそれをよく聴いてたって。俺はそういう感じでまず初期のリー・ペリーを見つけて、でも当時のリー・ペリーってジャマイカでは全然売れなくって、全部イギリスに輸出してた。 イギリスにブルー・ビートっていうスカのレーベルがあって、69年ぐらいにみんなサスペンダーして、ドクター・マーチンはいてモッズが髪を短くした連中が聴いてたインストものってのが大量にあるって知ったのは最近なんだよね。

ーそれにしてはよくできてるよね、レンジャーズの音。

高 イギリスではインストが流行ったのはジャマイカの歌ものってなまりが酷くってあんまりイギリス人にアピールしなかったからなんだけど。スキンヘッズはとにかくインストなんだよ。 リー・ペリーっていうのは同じリズム・トラックを使いまわすし、上物変えてリリースしたりも多い。自分のレーベルがイギリスで当たって5年間ずっと週1で音源を送ってて5年間で何百枚ってリリースされてるんだよ、インストなら大量生産できるから。ピンポイントでその時代の音源にはまったんだよね。レゲエはほんとに詳しくない、とにかく広大すぎて(笑)。 トロージャンっていう巨大なレーベルがあって、サブ・レーベルだけで30ぐらいあって(笑)。 それとPAMAっていうレーベルがあって、白人がやってるUKノーザン・ソウルの音質の悪いB級の作品を大量にだしてたレーベルなんだけど、そこがジャマイカからのライセンスものとかをいっぱい出してて、そのレーベルだけで69年に出したタイトルが500っていうんだよ、7インチで。

ーノーザン・ソウルってウィガン・カジノっていうクラブから始まってるんだよ、イギリス北部の。たぶんUKノーザン・ソウルを聴いて踊ってた人たちも同時にスカやロックステディーも聴いてたはずなんだよ。完全にワーキング・クラスのダンス・ミュージックとして。

高 そうだね、モッズっていうシーンが巨大すぎるね、イギリスは。

ーほとんど若者全般っていうかね。

高 パンクもマンチェもモッズのバリエーションっていうか、その時代の最新スタイルだよね。マルコム・マクラーレンだってそうだし、フランス語しか話しちゃいけないカフェで実存主義を語るようなスノッブなやつからフレッド・ペリー着て喧嘩ばっかりするようなやつまで幅広いし。ピーター・バラカンが言ってたけど。スキンヘッズていうのはアンチ・ヒッピーだと、でもみんなロンドンの郊外の同じような家に住んでて、ヒッピーになるやつはロンドンの中心のデパートや広告会社のメイルボーイみたいな仕事してて、スキンヘッズは親の代からおなじ製鉄所とか郵便局で働いてるみたいな違いらしいよ。 同じ階級なんだけど、都会のサービス業で働いてるやつは音楽やファッションの情報があるから髪のばしたり、新しい音楽きくけど、スキンズみたいに親父の代から同じ炭鉱や工場みたいに労働組合のある環境で働いてるやつは髪を短くしてスキンズになるって。 イギリスのクラブってもともとは同業者があつまる会合の場所がルーツなんだってね、同じ職場や業種、階級の人たちの集まりなんだよ。ロンドンは大都会だからそれだけじゃないんだけど、これが田舎のシェフィールドとかマンチェスターとかになると本当にバス運転手のクラブとかがあって、そういう背景が日本ではあんまり理解されてないよね。

ーそうだね、フットボール・チームもルーツもそうだもんね。炭鉱労働者のチームとか鉄道員のチームがいまのプレミア・リーグのルーツだったりするから。そういう背景知るとより理解しやすくなるね。

高 『さらば青春の光』の舞台は64年でまだスキンズも出てこないけど、モッズ対ロッカーズの対決になるでしょう、でもロッカーズって実際64年ぐらいにはほとんど存在しなかったって。ロッカーズは兵役と強く結びついていて、ヘルス・エンジェルスと一緒で。あの映画がよくできてるのは風呂場で隣になった幼馴染、あの「ユー・リアリーガット・ミー」歌ってた、あいつは兵隊帰りで、兵隊のOBってみんなで集まるんだけど、みんな色々な土地からくるからバイクなんだよね。ヘルス・エンジェルスも退役軍人の親睦会なんだよ。イギリスのロッカーズも同じでイギリスは60年前徴兵制があった、ロッカーズって軍隊にいってたやつなんだ。だから64年のブライトンで暴れたのはもうロッカーズの最後のほうなんだよね、数でいえば20対1ぐらいで圧倒的にモッズが多かった。具体的に言えば36年生まれのビル・ワイマンは軍隊に行ってるけど、40年生まれのジョン・レノンは行ってない。 あの映画を紐解くにはそういうことも必要で、ピーター・バラカンはあの映画の時代考証とかものすごく評価してて、「私の青春時代そのものだ!」っていうぐらい。

ー俺は『ディス・イズ・イングランド』に同じことを感じた。

高 そうだね。なんでスキンズが生まれたかっていうと、1969年のピカデリー・サーカスで撮影された有名な写真があって、ヒッピーがたむろしてるところにサスペンダーとブーツでジーンズをロールアップしたスキンズが威嚇するように歩いてる写真なんだけど、彼らもモッズから出てきてる。ピーター・バラカンが、彼は労働者階級だけど勉強ができて、長髪にしてジミ・ヘンとか聴いてたらしいんだけど、ジミ・ヘンがマーキー・クラブでライブやったときにクラブの前にスクーターがいっぱい並んで、モッズが大挙して見に来てたって。ピーター・バラカンは、スキンズはそういうモッズから生まれてたんだって言ってる。スキンズはロンゲにしてヒッピーになったモッズへのアンチテーゼだって。それも長髪にしてたのはロンドンの街中で働いてるやつらで、スキンズにして喧嘩してたのは郊外の工場や鉄道とかで働いてるモッズだったって。

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ー同じフィールドから出てきてるんだよね、ヒッピーもスキンズも。その後スキンズも1972年にはスウェードヘッドになってみんなジギー・スターダスト聴いてるもんね。グラム・ロックも元モッズやスキンズ。

高 そう!スレイドも最初はスキンズのかっこうでデビューしたんだよ。

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ーそうなんだ!

高 デビューのときはサスペンダーして、2枚ぐらいシングルだしてるんだよ。グラムも前髪が短くて後ろ髪を伸ばすのはスキンズからの流れなんじゃないかな。

ーデヴィッド・ボウイもマーク・ボランももとはモッズだよね。でグラムの次の世代がパンクになっていくんだよね、髪を短くして。ルーツはみんな一緒だよね、それでどの世代もダンス・ミュージックが好きでパーティーやるし。だからマンチェ世代もモッズとパンクがルーツのムーブメントだと思う。その世代が88年にみんなレイヴで踊りはじめるんだよ。

高 『ディス・イズ・イングランド』だよね。でもその流れよくわかる、俺はジャムよりピストルズやクラッシュの方がモッズっぽいんじゃないかと思う。ネオ・モッズよりもリアルにアティチュードを受け継いでるっていうか。

ーそうだね。

高 ピストルズでもジョニー・ロットンはインテリでちょっと違った感覚があったと思うんだけど、スティーヴ・ジョーンズは完全にモッズだよね。フェイセスの追っかけだったわけでしょ。初期はスモール・フェイセスのカバーもやってるし。

ー後の世代にとっては60年代があこがれのモデル・ケースっていうかね。そこにほんの数年スキンヘッド・レゲエが存在した。

高 スキンヘッド・レゲエって当時は日本にまったく入ってないんだけど、ほんとにカルトでイギリスだけの現象で。どれぐらいの規模のシーンだったのかわからないけど。実際69年から71年ぐらいで、その後まったくいなくなっちゃう。そのあたりはUKのスカ、レゲエの流れを見ないと。 やっぱりアイランドっていうレーベルがすごくて、はじめはトラフックとかフリーとかだしてたスノッブなレーベルだったわけじゃん。それがボブ・マーリーを見つけてきてロックバンドとして売り出したわけでしょう、クリス・ブラックウェルが。当然スキンズとかはうけつけないよね、ヒッピーくさくて。あんなものは白人の高級オーディオ・セットもってるやつが聴く音楽だって。工場の労働者みたいなやつらはまったく反応しなかったんじゃないかな、俺たちの音楽じゃないって。

ー確かにね、でもパンクの時期の70年代後半に出てくるUB40やスティール・パルス、アスワドですらはじめはかなり硬派なレゲエでパンク的なメッセージ持ってたよね。その後ポップスになって行くけど。

高 そうね、UKレゲエ、イギリス在住のジャマイカンの2世がやるバンド、マトゥンビとかもあれはウェイラーズと一緒でヒッピーの流れがあるんじゃないかな。スキンズは絶対聴かないと思う。

ー70年代後半はスキンズはもうパンクなのかな、コックニー・リジェクツもシャム69も大人気だったし。

高 シャム69はパンクでしょ、俺がいま一番知りたいのは71年にスキンヘッド・レゲエがまったくなくなって、77年ぐらいに2トーンが出てくるまでいったい何聴いてたかなんだよ。

ー確かにね。

高 『ディス・イズ・イングランド』見て俺がいちばん疑問だったのは83年にもなってドクター・マーチンはいてスキンヘッドにしてるのはどうしてなんだろうって。

ー俺はあれけっこうリアルだと思ったんだけど、田舎ではあのスタイルが定番だったんじゃないかな。監督のシェーン・メドウスもスコットランド出身だよね。 ナショナル・フロントが社会問題になるのって80年代半ばぐらい?

高 いやいや、もう73年ぐらいには問題になってるはず。ナショナル・フロントのピークは73年ぐらい、やつらの一番の主張は移民排斥で黒人もバングラディッシュ人も出ていけって。当時はポール・マッカートニーですらパキスタン人帰れみたいなこと言いてたから。ポール・マッカートニーの黒歴史、「ゲット・バック」の替え歌でパキスタン人帰れって歌ってるブートがあるよ。そういうムードが当時のイギリスにはあったんじゃないか。ナショナル・フロントのピークはオイル・ショックの頃だったと思うよ。 サッチャー政権でもあったはずだよね、そのあたりのイギリスの政治くわしく調べないとなー。特に炭鉱や製鉄所で働いてた人たちは職場がなくなったりして先鋭化していったと思うし。

ー『ディス・イズ・イングランド』で問題になったナショナル・フロントは80年代だったしね。

高 レゲエの話に戻るけど、俺がいまピンポイントで知りたいのは71年から76年までスキンズがなにを聴いてたかなんだよ。69年から70年にあれだけ大量のシングルがあったのに71年過ぎにはまったく消えてる。レーベルもけっこうなくなってるし。 『ディス・イズ・イングランド』見てたら80年代にも同じようなスキンズがいたでしょ。てことはずっとスキンズはいたはずなんだよ。スレイドが当初スキンヘッドのバンドとして売り出されたってことになにかヒントがあるかもね。。スレイドのマネージャーってはジミヘンのマネージャーなんだよ、チャス・チャンドラー。彼はすごいセンスだよね、アニマルズのベースで、アニマルズって北部の炭鉱町ニューカッスルのバンドなんだよ。そのワーキング・クラスの町出身ってことになにかありそうなんだけど。

ー71年以降、ジャマイカではどうだったんだろう?

高 ジャマイカでも『キャッチ・ア・ファイア』とかで盛り上がったんじゃないかな。そういう意味ではラスタかラスタじゃないかが凄くでかいのかな。イギリスで人気のあったトゥーツ・アンド・メイタルズはラスタじゃなかった、スカの時代からやってたし。彼らはたしかクリスチャンだったんだよ。ドレッドにもしないしラスタ・カラーも使わないし。 それとリー・ペリーのアップセッターズも実態のないスタジオ・バンドで、その都度メンバーを集めてたらしいんだけど、一番最初のアップセッターズ、トミー・マクックのバンドでスタジオ・ワンじゃない方、トレジャー・アイル、デューク・リードの方の完全にロック・ステディーのバンドがそのままアップセッターズになったんだけど、彼らの曲が60年代のイギリスで流行った時、井の頭レンジャーズのスタイルと繋がるんだけど、ジャマイカってライブ・シーンなんてなかったんだよ。バンドはレコーディングのためにスタジオで演奏するものだったし、当時のジャマイカってライブなんてなかった。 それがイギリスで大ヒットして、ナショナル・チャートの10位とかになって、トップ・オブ・ポップスに出たら1位になるかもってことでリー・ペリーがバンドにイギリスをツアーしないかって誘うんだよ。でもレコーディング・メンバーはスタジオで充分食えるからイギリスに行きたがらなかった。そこで19歳とか20歳の若手をメンバーにしてイギリス・ツアーをやるんだけど、それが第2期のアップセッターズで、それがそのままウェイラーズになる。だから音も違うんだよ、ロック・ステディーやってたトレジャー・アイルとかスタジオ・ワンとかの上の世代のミュージシャンとあきらかに。アメリカのR&Bだけじゃなくソウルも聴いてる若い世代、それがウェイラーズのリズム・セクションのバレット兄弟。 彼らがイギリスに行ってるんだよ。 井の頭レンジャーズがやりたいのはまさにそれ。井の頭レンジャーズはスタジオ・バンドなのにライブをやってくれってオファーが来るから、それこそリー・ペリーと同じことをやろうと思ったんだよ。だからすごいワクワクしてる(笑)。

ーいいね、この井の頭レンジャーズっていう企画の後ろには面白い話がいっぱい隠れてるよね。それをリスナーにも気がついて欲しいんだよね。

高 おまえも共犯者になれって(笑)。

ーもしレンジャーズの音楽に魅かれるものがあったらその背景とか、そこから広がる音楽を手繰り寄せて欲しいね、リスナーにも。だって今なら調べようと思えばいろんなテキストあるし、曲だってYOUTUBEで聴けるからね。俺たちが20歳前後のころはちょっとした雑誌の情報と想像力を駆使して、さらにレコード買ってっていう長い道のりが必要だったから(笑)。

高 そうだね、俺がこのモッズやレゲエ、スカに一番詳しいと思う人は山名昇さんなんだけど、俺は山名さんの本がバイブルなんだよ。あの人英語の文献を読むオタクでものすごい詳しい。

ー山名さんの本読むならなにから読んだらいい?

高 『ブルー・ビート・バップ!』だね、最初の版は91年に出てる、それから何度かリイシューになってる。あの人昆虫採集が好きで根っからのコレクターなんだよ。それとファミリー・ツリーってわかる?シーンの人名相関図、それを手書きするマニアでいまも書いてるんだよ、誰も見ないような。すごいよ。日本ってレゲエについてはボブ・マーレーの『ライブ!』以前はほとんど聴いてる人も知ってる人もいなっかったわけじゃない。唯一、サディスティック・ミカ・バンドの小原礼がロンドン・ツアーでいっぱい買い込んできたとかぐらいだよ、それも75年だからね。

ーそうだね、当時UKプロジェクトの社長だった藤井さんが『ハーダー・ゼイ・カム』の上映会とかを企画してたらしいんだけど、レゲエっていう表記をレガエにするかレゲエにするか悩んだって言ってた(笑)。

高 そうなんだよね、あの人フィルムと映写機積んで全国の大学とかまわってたって(笑)。日本では『ハーダー・ゼイ・カム』の意味は大きいかもね、俺もそれでハマったし。『ハーダー・ゼイ・カム』のサウンドはルーツ・レゲエじゃなくて72年、ボブ・マーリーのデビュー直前でどことなくロック・ステディーの感じが残ってる。あのバンドはメイタルズのバック・バンドで俺が一番好きな感じだった、ラスタじゃないアメリカン・ソウルの雰囲気があって。俺ラスタ・アレルギーがあって。

ー俺、昔から壮太くん知ってるから良く分かる(笑)、そうだよね、ラスタ好きじゃないよね。ってことは『ロッカーズ』もだめ?

高 映画としては好きだよ、あれはラスタをカリカチュアしてるから大丈夫(笑)。でもさ、いま吉祥寺あたりのバーで弾き語りとジャンベのライブとかみたら「大麻でガンが治る」とかMCがすごいわけ、無農薬野菜についてとか(笑)。それはちょっと…。 やっぱりアイランドっていうレーベル、クリス・ブラックウェルって人は物凄い上流階級の出身でラスタに理解がある人なんだよ。19歳の時に自分のヨットで漂流した時にラスタに助けられたことがあって、19歳で自分のヨットっていうのもすごいけど、初期にトラフィックとかフリーを売り出したけど、ボブ・マーリーを売り出したのはその時のラスタ体験が影響してる。俺はよくわからないんだけど、ラスタってジャマイカのヒッピーなんじゃないかな。ジャマイカはアメリカの影響がほんとに強いから。スカはニューオーリンズ・サウンド、ロック・ステディーはソウルの影響だし、レゲエもヒッピー思想の影響なんじゃないかな。

ーまあ、わかるけど。俺も音楽はすきだけど思想としてのラスタには興味ない、一番いやなのはラスタの人たちがそれしか認めない感じになるのがいやかな。俺がイギリスのワーキング・クラスの感じが好きなのはよかったら新しいものでもどんどん取り入れるところ、だからスカもモッズもノーザン・ソウルもマンチェも、もしかしたらレイヴとかもそうだしね。

高 ラスタってことでもボブ・マーリーは特殊な人だったんじゃないかな?ピーター・トッシュやバーニー・ウォーレルはラスタだったけど、ボブ・マーリーは「俺はいつかテンプテーションズのメンバーになる」みたいなこと言ってたし、「俺はカーティス・メイフィールドの生まれ変わりだ」みたいなソウル・フリークだった、デビュー当時はドレッドじゃないしね。だからボブ・マーリーにとってのラスタは世界戦略だったんじゃないかって思う(笑)。 その感じが矢沢永吉とかぶるんだよ、永ちゃんもキャロルでデビューするまでリーゼントにするの拒んでたんだって、ビートルズ的な髪型のほうがいいって。俺の中ではボブ・マーリーと矢沢永吉がつながってるんだよ(笑)。 ウェイラーズも当時はトップのバンドじゃなくてもっと売れてるバンドは他にもあったんだけど、若さと柄の悪さは飛び抜けてたっていう話だよ。だからウエラーズの売り出しはアイランドの戦略が大きかったんじゃないかな、『キャッチ・ア・ファイアー』も73年の発売当時は1万4千枚ぐらいしか売れてないんだよ。やっぱり75年の『ライブ!』でブレイクなんだよ。俺はウェイラーズのサウンドってサイケデリック・ファンクの一種なんだと思う。

ーあー、それわかる。「エクソダス」とかはファンクだね。

高 彼らはジャマイカではそんなにライブやってないんだよ。初期はイギリスやアメリカをドサ廻りのようなツアーやってて。トッド・ラングレンがウエラーズをお客さん50人ぐらいのCBGBで見たって言ってて、それが突然世界的なスターになって驚いたって。

ーそうだね、ボブ・マーリー・アンド・ザ・ウェイラーズの後にそのサウンドを受け継いだり発展させたバンドやミュージシャンっていないよね。80年代半ばからレゲエはどんどんポップスになっていったし。

高 それとロック・ファンが聴き出したんだよ。

ーそうだね。

高 クリス・ブラックウェルのマーケティングがすごい。俺は60年代のウェイラーズから全部聴いたけど、髪が長くなればなるほど音楽が弱々しくなる。俺はレゲエとして聴かない、ロックとして聴いてる。

ースティビー・ワンダーみたいなものかな、60年代初期のモータウン・ビートから70年代の『インナー・ヴィジョンズ』や『トーキング・ブック』のような進化して。

高 そうだねー、でもデズモンド・デッカーとかジミー・クリフとか他のビッグ・ネームはそういう進化しなかったよね。

ーポップ・シンガーを飛び越えたかどうかかな。

高 俺は気持ち的にはアンチ・ウェイラーズ、井の頭レンジャーズの立脚点はアンチ・ラスタ(笑)。

ーでもレンジャーズみたいなことやってるバンドってあんまりいないよね?

高 それがけっこういるんだよ、バンドキャンプとかサウンドクラウドで掘ってるとサンディエゴとかロスあたりはけっこういるみたい。あとベラルーシとか(笑)。ベラルーシのスキンヘッド・レゲエ・バンド、あとドイツもけっこういるよ。井の頭レンジャーズはサウンドクラウドがメインだから、そこにリミックスさせてとかMC被せていいかって連絡くるのほとんどドイツ人(笑)。調べたらドイツとかオランダってスカのレーベルやイベントが結構あるんだよ。イギリスでも古い曲だけのパーティーとかやってて、ほんとヨーロッパは層が厚い。 面白いのがそういう奴らは2トーンには興味がない、69年で止まってるやつがいっぱいいて(笑)。 イギリスはポップ・レゲエっていうジャンルがあって60年代のスカの時代から70年代まで毎年のようにトップ・テン・ヒットがあるんだよね、ミリー・スモールとかウェット・ドリームとかヤング・ギフテッド・ブラックとか、そういうのも日本に入ってきてないよね。ジョン・レノンがビートルズを解散した時にこれからはレゲエだって言ったんだけど、俺はそれが全然ピンとこなくて、でもイギリスの状況を調べていくとなんとなくわかった。普通にスカやレゲエのヒット曲がいつの時代もあるんだよ。なんで日本に入ってこなかったんだろうね?

ーそうだよね、007のテーマ・ソングの「シャンティ・タウン」なんて巨大なヒットなのにね。映画は日本でもヒットしてるはずだよね。

高 なんか壁があるような感じだね。70年代中頃も今野雄二とかが紹介してるオシャレな音楽ってイメージだったんじゃないかな。どういう流れで湘南の風まで行ったのかな(笑)。

ー確かにね、80年代にはUB40もアスワドもポップスになるから、そのあたりからなにかが変化したのかな。それと俺みたいにパンクから入ったやつやその後のポスト・パンクからダブに行ったやつ、そういう感じで広まったんじゃないかな。ワールド・ミュージックのブームもあったし。でも60年代のスカやロック・ステディーに反応した日本人っていなかったのかな。 80年代はスカパラ、スカフレイムスやミュート・ビートも出てくるから、どんどん発見されていったよね。

高 そうだね、でも60年代から70年代、つまり2トーンが出てくるまでの日本のスカの受容の歴史がわからない。

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ー井の頭レンジャーズに話を戻すと、俺の知り合いが井の頭レンジャーズ大好きで、「メチャわかってるサウンドの最高なスカ・バンドがいる!井の頭レンジャーズって知ってる?」って言われて。レンジャーズの活動が始まったころ、なんかいろんなところから名前がでてきてて。

高 なんか、井の頭レンジャーズ好きなひとが一日中家でかけっぱなしにしてたら、その人の奥さんが、「これデパートでかかってる音楽みたいって」言ったって(笑)。ヒット曲のインスト・バージョン、でもジャッキー・ミットもずっとそう言われたんだよ。だから俺はミューザックっていうか、イージー・リスニングだなって。俺昔からヒット曲のインスト・カバーが好きだったんだよ、MG’sとか。スタジオでもずっと弾いちゃうんだよ、井の頭レンジャーズはそれをやってるんだよね。イージー・リスニングやインスト・ミュージックにたいする偏見を逆手にとって。だからデパートやスーパーマーケットの音楽って俺にとっては嬉しい言葉(笑)、なかなか理解されないけど。だからスカやレゲエ、モッズがどうのとかじゃなくてヒット曲を別の位相で聴かせるっていのがテーマなんだ。実際スキンヘッド・レゲエってカテゴリーも曖昧だし、俺もそんなマニアじゃなからね。

ーじゅうぶんマニアだと思うけど(笑)。

高 MG’sとか、それこそハーブ・アルパートから入ってるから。それとラウンジ・ミュージック、そういう視点があるんだよ、自分で分析すると。

ーそうだね、壮太くんがあげてくるミュージシャンを並べると70年代初頭、大阪万博っていうイメージだよね、なぜか。 でもいまラウンジってないよね、90年代以降はチルアウト・ルームっていうものがあったけど、いまはメイン・フロアが消滅しつつあるからな。だからラウンジもチルアウトもいまは架空のものって感じがする。

高 それは俺もずっと思ってた、チルアウトってムード音楽の進化系だよね。でもラウンジ・ミュージッックもダンス・ミュージックとしてつくられてるよね。ロック・ステディーもラバーズ・ロックも。昔はメイン・フロアのダンス・ミュージックだったスカもいまはチルアウトでも聴ける。 井の頭レンジャーズってDJ受け凄くいいんだよ、でもみんな「飛行機雲」も「徹子の部屋」もラバーズだと思ってる(笑)、わかるけどね(笑)。
いまバンドでライブはじめてるからアー写とろうって言ってるんだけど、ロールアップのジーンズにサスペンダー、ドクター・マーチンにフレッド・ペリーのポロシャツで(笑)、まずはみんなにスキンヘッド・レゲエってものを教育していかないと(笑)。

巨大なパーティー_remix_3000

遊佐春菜 / 巨大なパーティー(JAH善福寺from井の頭レンジャーズ Remix)
配信スタート!

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壊れかけのテープレコーダーズ、Have a Nice Day!の遊佐春菜のソロ・プロジェクト始動!
ディストピア・シティー東京で孤独に生きる僕たちのもうひとつの物語。
CD2枚組にてリリース、Disc 2には全曲のリミックスを収録!
All Songs Written by 浅見北斗 (Have a Nice Day!)

4月20日発売
遊佐春菜 / Another Story Of Dystopia Romance

KKV-120
CD2枚組
税込3,300円

予約受付中
https://store.kilikilivilla.com/v2/product/detail/KKV-120

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