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日本人はどこからやってきたのか

 先週、『日本人』というエッセイで、断定的に縄文人は、バイカル湖に閉じ込められていた人々が、渡ってきた末裔のような書き方をしました。

 しかし、これは、今ある説の一つで、実際は、縄文時代という1万年以上続いた時代の中で、複数回に別れて、いくつかの方向から来た人たちが互いに交流し合い、縄文人になっていったようです。しかし、これも一つの説に過ぎず、そういう意味では、今でもどこからやってきたのかは、はっきりしていないみたいです。

 上の地図は、氷河期の頃の世界地図です。氷河期では、気温が低かったため、今よりも海面が100メートルぐらい低かったと考えられています。そして、現在の東南アジアのあたりに、今は海に沈んでしまっている広大な大地スンダランドがあったといわれています。

 アフリカから移動してきた私たちの祖先の一部は、このスンダランドに落ち着きます。しかし、気候が暖かくなるにつれ、海面が上昇していきます。そこで、我々の祖先は、一部が北上し、一部が南下していったと考えられています。バイカル湖に居ついていたのも北上していった集団の一部です。また、南下していった集団は、オーストラリアの原住民として、オーストラリアに移住します。この時、バイカル湖(上の地図では、シベリアと書かれた辺り)の方には北上せずに、台湾辺りから日本を目指していった集団もあったかもしれません。また、バイカル湖にいた集団の一部が、オホーツク海の方から北海道経由で本州にやってきたことも考えられます。そして、バイカル湖にいた人々もしくは、スンダランドにいた人々が朝鮮半島を通って、北九州もしくは山陰にやってくるルートも考えられます。

 いずれにしても、今は無き大地スンダランドに住んでいた集団の末裔が、どのルートを通ったかに関わらず、長い年月をかけて移動し、やがて日本にやってきたものと思われます。オーストラリア原住民と骨から再生された縄文人が似ているのは、こうした経緯があったからなのかもしれません。

縄文人の複製顔 左が男性、右が女性 (歴史民俗博物館展示品)

 溝口優司著「アフリカで誕生した人類が日本人になるまで」によると、寒冷地で生活することによって、人の体の一部に変化が生じるといいます。寒冷地の生活に対応していない人たちは、手足が長く、彫りの深い顔をしているといいます。アフリカ人やオーストラリアの先住民がその代表例だそうです。それでは、氷期に寒冷地で生活をしていた人たちに見られる特徴とはどのようなものでしょうか?

 手足は、短くなり、顔の凹凸がなくなり、平坦になるそうです。かつ、寒冷地での生活を経験したことのある集団の末裔のみが一重まぶただそうです。これは、寒さに耐えられるように、まぶたに脂肪を蓄えた為、と考えられています。いわゆる平安貴族顔、もしくはテルマエ・ロマエで登場する顔の平たい族のような顔になるというのです。

 しかし、縄文人の顔の特徴は、発掘された人骨から見ると、寒冷地仕様になった人の特徴は見られず、どちらかというとアフリカ人やオーストラリアの先住民に似ているそうです。そこで、溝口さんは、スンダランドから直接日本にやってきた人たちが縄文人になったのではないかと仮設をたてています。

 しかし、縄文人の人骨は、あまり出土していないのが実情です。出土していても、完全な形で残っているものは稀で、統計的にこれが縄文人と言えるほど、資料がそろっていないようです。実は、日本列島には、皆さんもご存じの通り火山がたくさんあります。その影響で、長期的に人骨がそのまま保存されている可能性がかなり低いらしいのです。正確なことがわかるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。

 ところで、一万年以上続いた縄文時代です。その間に住みついたいくつかの集団が互いに交流し合い、長い時間のなかで、混じり合っていった可能性はないとは言えないと思います。この間書いた男性のY染色体の調査でも、複数の集団が混じり合っていることがわかっています。そうすると、いくつかのルートでやってきた人たちが、例えば、寒冷地に移り住むなどして、日本へ移動する過程で、体形や遺伝子に変化を生じ、そうした人々が日本でまたスンダランドから直接きた人々と再開し、融合していったとは考えられないでしょうか。

 縄文時代は、その後の弥生時代以降のように、武器を使った争いを行った形跡がないといわれています。そう考えると、この仮説を私は、信じたくなります。

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