オフシーズンの過ごし方/安楽死論題についての雑感

 気が付いたら色々なものの更新が止まっていました。お陰様でちゃんと前期はフル単だったのですが、また飽きっぽい性格が出てしまい、なんだかなぁと思っています。

 本稿では、タイトルの通り2点、俗に"オフ"と呼ばれる、ディベート甲子園シーズン外の過ごし方、そして、近畿冬大会の安楽死論題について、それぞれ書いていこうと思います。

◇オフシーズンの過ごし方に関する提案

検討を始める前に、そもそも、2つのシーズンの違いについて考える必要がありますね。

①メンバーの違い
…レギュラーの中の最高学年の選手は通常甲子園で引退し、新チームが組まれる事が多いですね。また、レギュラーの中でもパート替え(立質→反駁へのスライドなど)も多く、不慣れなポジションに挑戦する季節だと思います。

②プレパ期間の違い
…甲子園と別論題で大会が開かれる場合、甲子園は3-8月と約半年組まれるのに対し、オフは1-2ヶ月の期間であることが多いですね。なんで論題を早く発表しないんだ、と選手の方も言いたくなると思いますが、多くは折衝などで時間がかかっているのでしょう。そんな大人の背景もあり、オフのほうが準備期間が短いケースが多いです。

 さて、実はこの段階で、①と②の噛み合わせが絶望的に悪いことに早速気づいてしまう訳です。通常、人間が新しいことをやる場合、当然そこには失敗が生まれやすく、また、試行錯誤するという意味でも時間をかけなければいけない。その割には時間が短い。

 そこで、選手の皆さんに意識していただきたいのは、

"オフシーズンの目標をチームで明確にする"

ということです。これは別に、大会の優勝とか、そういう話ではありません(そういう目標ももちろん大事です!)。例えばですけれど、

・反駁ブリーフを丁寧に作り、シーズン中に指摘された「反駁のインパクト」まですべて書き込む
・少なくとも週に1回のペースで全員で話し合い、議論の方向性や、必要なリサーチ論点について共有する
・質疑のブリーフ作りを第一反駁と一緒に行い、質反の連携をより意識する
・資料集の管理システムやメンバー間の連絡システムを刷新する

このような感じで目標を立てるといいのではないでしょうか。例えば僕は、仕事をするときに環境を整えてパフォーマンスを高めるようにしたいタイプの人間なので、オフシーズン(大学生である僕のオフは逆に甲子園シーズンになるのですが)の時には、資料集やコミュニケーション環境の整備を毎回色々試したりしています。勿論、そんな形に拘っても仕方ないと思う人もいると思いますが、僕が見た学校の中には「凄いアナログな方法使ってる…立論絶対紛失しそう…」なんて思ったところもあったりして、チームのニーズなんかを考えながら、チャレンジするといいのかなと思っています。もっとも、形か質かで言えば明らかに質なので、上3点のような、

・自分たちが甲子園シーズンにジャッジから指摘されたこと
・自分たちが甲子園シーズンで戸惑ったところ、分からなかったところ
・様々な場所で聞いた/知った、うまいディベーターがやっていること
・自分の中で明確に"課題"として認識していること

を言葉にして、全員で共有すると良いと思います。そして、ただ目標を立てれば良いのではなく、具体的に何をするのか、そこまで決めてしまいましょう。黒板の上に貼る学級目標のような扱いにしてしまうと、結局自分が達成できたのかどうか、よく分からなくなってしまいますので。

 ちなみに、こうしたオフシーズンの動き方を考える上では、全国大会で何度もジャッジをなされているディベーター、KK氏によるこの記事を参考にされるといいかと思います。

 PDCAという単語は、ディベートに限らず、多くのプロジェクトを遂行するときにも使われる言葉ですね。

Plan=計画
Do=実行
Check=評価
Action=改善

 実は、多くのチームは「D(C)A」しかやっていないんじゃないか、というのが最近の僕の個人的な意見です。要は、「この試合ではコレを試したい」というような考えを持たず、

「とりあえず練習試合来たんで立論今朝間に合わせました」
「試合しました(Do)」
「ジャッジからいろいろ言われました(Check?)」
「とりあえずそこ直します(Action)」

というサイクルでシーズンを過ごしていませんか?ということ。本来あるべきは、

「次の練習試合では、相手のデメリットの固有性を重点的につぶす反駁を打って、今までのような発生過程中心の反駁とどちらが良いのかを知りたい」
「新しくこういう立論の筋を考えたんだが、この筋の弱い所を見つけたい」
「このエビデンスをこういうストーリーで使いたいが、エビデンス内でそれが言えているとジャッジがとるのかどうかを知りたい」

といったようなPlan(仮説、この試合における目標)を立てたうえで試合をし、ジャッジからのcheckと、自分の目標に照らし合わせたCheckをしたうえで、改善を図る、というストーリーではないでしょうか。僕は結構今でも試合後にジャッジに質問に行きますが、これは自分のPlanの精査の為にやっていることです。こうして自分の仮説をしっかりと検討することで、毎回毎回ただ漫然と試合に出るよりも多くのことを学べ、ゴールに向かってより良い選択肢を選べるようになります。

 余談ですが、僕はこの試合に臨むPDCAの雰囲気を、よく数字論理ゲームのNumer0nに例えます。1EAT1BITEとかのアレです。4桁数字でやる場合、最初は9*9*8*7通りあるわけですが、1つ数字を言うごとに条件が絞れていき、パターンが減っていく。その中で毎回検討を重ねながら、最速で4EATを取れる道を選ぶ。なんとなくそんな感じです。ディベートは途中でパターンが増えるのが面白いところですがね。

 というわけで、ただオフシーズンを過ごすだけだと勿体ないというか、学びが小さくなるので、限られた時間の中でテーマを決めて、論題に取り組んでほしいなぁ、というお話しでした。僕は本気で、オフシーズンの成長の度合いが甲子園シーズンの結果を左右すると思っているので、密度の濃いオフを送ってほしいなぁと思っています。

◇安楽死論題への雑感

 さて、近畿冬の高校論題は安楽死となりました。中学は選挙棄権ということですが、こちらはサイドバランス等々何も調べていませんので、私には書けることがありません…公式からも論題解説が出る見込みはないですし、選手の皆様の議論を楽しみに待っていようと思います。

 逆に安楽死なら書けるのかお前は、という点ですが、一応論題を推薦した身として、どういった議論ができるのか、また、どうしてこの論題を勧めたのか、というあたりを少しお話しできればと思います。なお、予め断っておきますが、これは完全に一個人の見解であり、所属するいかなる組織の公式見解でもないことを示しておきます。また、いかにトランスクリプトなども貼りますが、資料の原典はしっかり自分で当たりましょう。

◇参考資料類
…この論題は、ディベート甲子園においても第3回、第8回、第15回の高校論題として採用されています。その他多くの大会で行われており、「メジャーな論点がどういうものか」という点は分かりやすいのではないでしょうか。
甲子園での論題解説は、以下にあります。

また、トランスクリプトが残っているものとしては、最近だとJDA系大会の以下2つでしょうか。

勿論、これがメジャー論点だから!といった形で議論の発想を制約するのは僕としても不本意です。あくまで「ざっとこんな感じか」というイメージ程度で捉えてください。

◇この論題から近畿の中高生が学んでくれそうなこと
…ここは特に自分の雑感なので流してもらって結構です。

去年、一昨年と試合を見てきて、近畿地区の中高生は凄くディベートを楽しんでいて、かつ、全国優勝を多くのチームが本気で狙っていることを強く感じつつも、優勝するにはあと幾つか超えなければいけないハードルがあるのではないだろうかと僕なりに感じています。その1つが、プレパを一定することにより、「事実ベース」(何が起こる、起こらない、どれくらい起こるか)の議論は行えるようになってきたものの、事実が起きたうえで何が大事なのか、その起きる事象の価値、或いは国として事象が起こることをどうとらえるべきなのか、という「価値」のレベルでの争いで、決め手を欠いてしまうケースが多い事。これは練習試合などでも折に触れて指摘していますが、重要性や深刻性ををとってつけたように組んでいては、反駁まで含めて「自らの立場はどうなのか」という部分をクリアにすることができません。そこで、冬大会では、メジャー論題で、価値の部分を丁寧に作りこむ必要のある安楽死論題を取り上げることで、自分たちが両サイドでどういった立場を取っているのかを丁寧に見つめ返してもらったうえで、スキルアップにつなげてほしいと考えています。

◇予想される論点
肯定側はオーソドックスに「死に方の多様性を認めよう」という点を軸に、現状緩和ケアが不十分であること、法制度化されてないが為に現状安楽死に踏み切れていないこと、高齢者が増える社会の中で終末期医療そのもののありかたについて考えていこう(Good death)、などの主張展開が考えられます。否定側は基本的に滑り坂や圧力による不本意な自己決定を論じる立場になります。プランを導入して政治や経済状況が変わる、というタイプの主張ではない分、国の立場でシステムを導入することの弊害について丁寧に論じる必要があります。制度設計として「医師や家族が悪用するケース」「弱者排斥の手段になるリスク」などを挙げつつ、そもそも「自己決定」なるものが患者にできるのか(末期の患者は正常な判断能力を持っているのか、そもそも判断能力とは何か)、患者の自己決定をどのように認めるべきか、などを論じると議論がより深まると考えられます。

 もう少し補足をすると、この論題で個人的に一番難しいと考えるのは、「ヒトの判断や決定」とはそもそもどういうものなのか、という点です。

たとえば、皆さんが身体を拘束され、首元にナイフを突きつけられ、「この健康食品を買え」と脅されてやむなく頷いたとしたら、それは誰がどうみても「自己決定」の産物ではないでしょう。圧力の域を通り越して普通に脅迫罪です。余罪も付きそう。

では逆に、テレビで健康食品のCMが流れていて、使用者の声を聞いて、買いたいなぁと思った場合、これはおそらく「自己決定」と呼んでもいいでしょう。或いは、口コミかなんかで「○○さんも××さんも買っている」と聞いたら、なんとなく買いたくなりませんか?

では一方で、いまの「健康食品」の部分を「安楽死」に置き換えたらどうでしょう。

まず最初の事例は明らかにアウトですね。これは変わらない。では、世の中に安楽死という制度が生まれ、安楽死という制度などがテレビで特集された場合、これはどうですか?「制度があってもやるやらないは本人の意志だし自己決定です」という人もいれば、「制度があること自体、安楽死をしなきゃいけないというプレッシャーになる」と考える人もいます(両方とも安楽死でそういうエビデンスを見ました)。

更に分かりやすいのは口コミです。「○○さんも、××さんも、安楽死を選択して周りに迷惑をかけずに死んだよ。で、お前さんはどうだい」と言われ、その結果安楽死を選択した場合、これは「自己決定」なのでしょうか?或いは「圧力による不本意な同意」なのでしょうか?

これだけではありません。更に根本的な話として、「自己決定」って何ですか、という話になります。だって、仮にどんな刷り込みがあろうとも、自分で決めたら自己決定だ、と言うこともできますよね。CMを持ち出すまでもなく、普段我々は様々な情報や刷り込みをもとに意志決定をしている。だからそれも自己決定なのでは?と考えることもできるでしょう。しかし、程度問題で極端な事例を出すなら、ナイフ脅迫の事例だって自己決定と言えるのかもしれません。結局自分で決めてますからね。命を天秤にかけられたとはいえ。

こう考えてくると、自己決定が大事です!とただ叫ぶだけではダメだということに気づくはずです。自己決定ってそもそも何ですか?どういう状況の決定は自己決定と呼べるのでしょう?国民の自己決定を国が護る理由や意義は何ですか?逆に国は自己決定より守らなければならないものはないんですか?など。考える事は多様です。本当に自分の生を心から終えたいと思っている人に自己決定権を保障し、死なせてあげる事。家族や社会、医師などのプレッシャーで不本意ながら安楽死を選び、死に至る人の生命権。国はどちらを守るべきなのでしょう?

勿論、メリットデメリットの発生を切るのも有効な議論です。というか、切ることができればベストです。しかし、それでも双方が残った時、どういった立場から自分たちの優位性を示すのか、考えてみてください。

もう一つ、先に書いた通り、"判断"についても考える必要がありそうです。これは意思決定と大きくかかわってきますが、「判断能力がある」とは、何を指すのか、という話ですね。

たとえば、痴呆を患っている方。自分の事もよく分かっていない、考える事も難しいという状態の方。表現はよろしくないですが、いわゆる植物状態にある方。こうした方が「安楽死同意」の書面を書いたよ、と医師が提出したとして、第三者である我々は、「本人の判断だ」と確信を持つことはできるのでしょうか?医師や周囲の人が適当なこと言って書かせたんじゃないの?と邪推したりしませんか?

 当然、これは「判断能力があると解される人」にも同じことが言えます。偽造だの圧力だのの理由は同一ですから。しかし、現実に明らかに判断能力がなさそうな方(これも程度問題です)が同意したとして、我々は、というより国家は、「うんうん、それもまた自己決定だね」と容易に頷いていいのでしょうか?こうした「判断能力」「自己決定」まわりの問題は、現実的なシチュエーションを考えるとよく分からなくなり、国家という立場で何をするべきなのか、丁寧に検討する必要があるように思えてくるのではないでしょうか。僕はプレパをしていてこの論点に一番時間をかけました。個人的には非常に難しかった論点です。

 そして、まったく別の観点から1つ、前に書いた「自分たちの立場を明らかにする」という所にも絡めて、現状ある他の代替政策(と思しきもの)、例えば尊厳死やセデーション、緩和ケアなどが日本でどういう状況にあるのか、それが安楽死とどう違うのか、この辺りは注意深く検討し、何よりもチーム間で認識を共有するべきでしょう。類似政策であったとしたら、内因性や固有性がその分削れる可能性もあるわけです。安楽死の動機になる苦痛は緩和ケアでどうにかなるのかもしれない。圧力による不本意な死は尊厳死でも起こっているのかもしれない。そうなると、メリットデメリットの発生量って変わってきますよね。こうしたところを、応答から一貫してチームとして理解し、試合を組み立てていくと良いのではないでしょうか。


長々と思いを書きましたが、結論としては、来期(主に近畿の選手の皆さんが!)充実したシーズンを送れるよう、秋以降も自分で良ければサポートさせていただくとともに、選手の皆さんにも、しっかり自分たちのレベルアップを目標にして取り組んでほしいな、という所です。10-12月と、自分の大会や仕事で週末がかなりあかないのですが、練習会などはちゃんと企画しますので、PDCAを回す1つの手段として使っていただければ幸いです。それでは、頑張って下さい!


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