【一首感想・6】言わなくていいことなのに死者のまま死なせてあげていい筈なのに 平井弘

 発表時の時代背景に照らせば、この歌は70年前の戦争と、その戦没者のことを歌ったものだろう。とりわけ、死者のまま死なせてあげていい筈という部分には英霊という言葉を想起してしまう。しかしここではそうではない仕方でこの歌を読みたい。つまり特定の時代背景を少なからず反映している歌は、それが遠景になっても名歌でありうるか。

 この類の歌には二通りの道があるだろう。ひとつは背景の文脈から離れても普遍的な価値を持つもの。もうひとつは文脈を離れると輝きを見出しにくくなってしまうもの。そこで注目すべきは掲出歌の極度の情報量の少なさだ。情報が少ないゆえに特定の状況に左右されない価値を持つか。それとも情報の少なさを補って読むには時代背景の理解が必要であり、そこを離れては読めないか。どちらだろう。

 結論からいえば私は前者を採用する。というのもこの歌はどの時代でも起きうることを書くのに成功したからだ。たとえば歌中にいろいろな人々を代入したとして、しかしそのどれにおいてもこの哀切は届くだろう。それはすなわち、生者が死者について勝手を話すのを聴くときの哀切だ。よって冒頭の問いには、この歌は今も名歌だと答えられる。

 さて、どんな発話も別の文脈に引用しうる。けれども、私は引用されて意味の変質を被る部分となお変質しない部分とがあるのではないかと考えている。たとえば掲出歌を先の大戦での戦没者ではなく、小説の登場人物の死で解釈した場合。そのとき「死者」の指す人間は全く変わるが、しかし上述の哀切さは(比較的)変質しないだろう。

 歌はいくつもの解釈の可能性を持つ。そのうえで、私は解釈それぞれにではなくその解釈の幅を生む仕組みをこそ解きあかしたい。そこから、より深い次元での読みの変質がはじまると考えるからだ。

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