【一首感想・11】あれは声なりしを ながき気遅れの日をあさがおの咲き昇るかな 平井弘

 まず口語にしてみる。「あれは声だったな ながい気遅れの日のなかをあさがおが咲き昇ることだ」

 あれは声なりしをの「し」は直接過去の助動詞「き」の連体形、「を」は文末で使われる間投助詞で詠嘆を表す。ながき気遅れの日をの「を」は格助詞で経過する場所・時間を表す……のだろうか。「気遅れの日のなかを」と訳した。「かな」は詠嘆の終助詞。文法は非常に自信がないが、大きく外してはいないだろう。

 そのうえでどのような読みをしたか書く。まず、かつて耳にしたあれは声だったな、という想起が行われる。そして自身の長く気後れしてきた日々を、朝顔が咲き昇ってゆくイメージが現れる。朝顔が咲くからにはこのイメージは夏の景色だろう。ながき気遅れの日を「自身の長く気後れしてきた日々」と解釈するのは無理があるが、現段階で私はこう読んだ、ということで気にせず書くこととする。

 「ながき気遅れの日をあさがおの咲き昇るかな」はどのような光景か……となるとうまく描けない。気後れしながら生きてきた長い年月と、あさがおが咲き昇る夏の一日が同じ画面上で重なりあう映像といえばよいだろうか。夏の一日は長い。それが年月の長さと結びつく。

 

 ここまで書いてきて、この歌の魅力は、複数の時間が短歌のなかで同時にはじまって終わることだろうかと考えた。ある日聞いた声。声を思いかえす瞬間。気遅れして過ごした今までの人生。そしてそれらの時間を貫き、かつ夏の一日の出来事として起きる朝顔の開花。

 過ぎ去った過去を懐かしんでいるようで、同時にその過去と現在とが同じ夏にあるような、奇妙な感覚を起こさせる歌だといえる。

 

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