【一首感想・10】立ちあがるはずみというは花ならば切口に思いあつめむものを 平井弘

 口語に直すと「立ちあがるはずみというのが花であるならば、切口に思いあつめるだろうのに」となるだろうか。立ちあがることは、花が上に向かって咲くのと似ている。上句は体感としてそのように理解する。下句は上句と順接でつながっている。だから上句の理路の流れでうなづく、そうか切口に思いあつめるのか。けれども切口とはどこだろう。

 切花での切口は根の側の、水を吸うところだ。ここに思いあつめるというのは水が集まって吸い上げられるイメージと重なる。これもわからないではない。立ちあがるはずみをつけるためだから、足元を切口として、そこに思いの力をかける。

 長々と自身のなかの景を描写した。わたしがこの歌を好きなのは、この歌が読めばぎりぎり納得できるから、ではむろんない。これを読んだときに生じる体感がこころよいからだ。

 私は自身の身体を想像上で用いてこの歌を理解する。そのとき、実際には私の身体にない「切口」が傷のように足へ痛みを呼び起こすこと、立ちあがるはずみに自身の身体が花ひらく錯覚をすること。ここに官能があり、私にはそれがよろこばしい。

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