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「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」は結構難しい映画だった

※例によってネタバレには一切配慮していません。この映画にそんなものが必要なのかさておき。。。

「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」を観た。あっという間に90分が過ぎてしまい、非常に楽しめた。ただその面白さを言語化しようとすると案外難しい映画だった。観る前はパシフィック・リム的な、「減点法で評価すると30点、加点法で評価すると300000000点」というタイプの映画化と思ったがそうでもなかった。パシリムはメインストーリーのありきたりさや役者の演技にケチをつけているとあっという間に100点満点中30点になってしまうのだが、良いところを評価しようとすると「モンスターの総称がKaiju!100000000点!」「ロボットの旧世代型が原子力で動いていてしかもパイロットはロシア人!テンプレか!100000000点!」「なんかロケットパンチ飛んだ!100000000点!」とかやっているうちにあっという間に300000000点に到達する。ところがマリオは「このステージ懐かしー」「このBGM懐かしー」とかはあるのだが、そこまで思い入れがあるわけではないのでそうならなかった。

90分の中で一番面白かったのが前半のマリオとピーチのトレーニングシーンだったというのが言語化を難しくしている理由な気がしている。ピーチがスーパーマリオメーカーよろしく「わたしがかんがえたさいきょうのコース」を出してきてド素人のマリオを鍛えるパート、あれにこの映画の面白さが詰まっているような気がしてならない。

この映画は実に奇妙で、映画の文法とゲームの文法がぐちゃぐちゃに混ざっている。「カメの敵キャラ=ノコノコを踏みつけたら甲羅だけが残って、もう一回踏むと甲羅が回転して武器になる」という現象はマリオという「ゲーム」のルールだ。だがこの映画ではそれが自然の摂理化のようにさらっと出てくる。終盤、披露宴に呼ばれたキングボムが席に座ろうとしてもともといたノコノコを踏んじゃって甲羅にしちゃった挙句その甲羅が動きまくるのとかね可愛いんだが、冷静に見るとなんだそれはとなる。

「映画とゲームの文法が混ざっている」ケースは他にもある。この映画には1upキノコが出てこない。にもかかわらず、劇中のマリオはいくらピーチのトレーニングコースで「死んでも」、いくらドンキーコングに「殺され」ても、いわゆる残機が減らない。それはいくら死んでもゲームオーバーになってもプレイヤー自身が諦めなければゲームを続けることはできるからで、あの不滅さはとにかくマリオのゲームをやりこんだマリオキッズの表象だ。これはさっきのノコノコの例とは逆に、ゲームとして考えると不自然な挙動(残機が減ったりゲームオーバーになるシーンがあっていい)だが、観客をプレイヤーに見立てることで成立している。ここら辺にこの映画のゲームっぽさを感じる人もいるようなのだが、個人的には逆にとても映画っぽさを感じる。映画館という閉鎖空間の中では「観られる作品 - 観る観客」という関係性が強制的に構築・維持される。それを逆手にとって作品側が観客の位置づけを操作する(マリオでいえば「観客にゲームのプレイヤーっぽく感じさせる」)というのは映画の常套手段だ。

ピーチとのトレーニングシーンにはこうした「映画とゲームの文法が混ざっている」ケースが凝縮されている。それに加えてそもそも元ネタとなっているであろうスーパーマリオメーカー自体がマリオシリーズに対する一種のパロディに近い。マリオメーカーは「ラスボスはクッパとかじゃなくて鬼畜コース設計してるゲームメーカー=任天堂じゃん」ということをつまびらかにしてしまっているゲームなわけで、序盤のトレーニングシーンで使って良かったのか???それこそ最終盤でよかったんじゃないか???という気がしている。僕が過大評価している可能性は大いにあるのだが、やっぱりどう考えてもマリオメーカーは自己言及性が強すぎて、マリオのゲームをテーマにした映画においては使ったら最後な最終兵器という印象がある。

じゃあ残りのシーンが蛇足だったのかというとそういうわけでもなく、レインボーロードいいよねとかクッパの歌最高(字幕で観たから)とか、やっぱ最後はスターだよねとかなんだかんだで楽しめるのがすごい。そこはマリオだからなあ。しかし完全な蛇足だが同じ強力なグローバルIPという観点で見るとポケモンの映画もこれくらい頑張っていいのではという気もしてくる。

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