とあるプリキュア論について、私のスタンスと反論 まとめ後編

KLPです。
新しいプリキュアのタイトル「わんだふるぷりきゅあ!」が発表されたということで、男の子プリキュア批判派の一部への反論もまとめておきます。

例によって長い記事になってしまったため、まとめと言いつつ前後編に分けています。
前編は
こちらです。

※プリキュアについての普通のレビューはこちら
特に、この記事と内容が大きく重なっている記事は
こちら


どうしても責任を負わせたい

批判派は、良くないことが起きると男の子プリキュアのせいにしたがりました。

【ストーリーについて】

本当にキリがないので細かい事例は挙げませんが、批判派はストーリーで何か気になるたびに「キュアウィングが足を引っ張っている」「男の子は扱いづらい」と主張しているようでした。制作過程や裏事情についての妄想をさも真実かのように語る人までいて、唖然とします。
いわく、「ショタ好き」「男好き」のためだけにウィングを作ったせいで、ストーリーが上手く作れないのだそうです。

私にもひろプリのストーリーで気になる部分はありましたが、ストーリーとは様々な要素が絡む流れです。全ての問題が一つの要素だけに原因があるとするのも雑な結論でしょう。
あらゆることを一つの結論で済ませるいい加減な理屈では、他人様の脚本に文句は言えないと思います。

また、「男の子」に否定的であるために、つい悪い方に解釈している面もあると思います。私には、批判のための批判にしか見えないことも多くありました。
例えば、見ていると「男の子が悪い意味で目立つ、優遇だ」という批判と「男の子を出した割には目立たない、扱いが悪い」という批判が混在していて、それ自体が真逆の形でも「男の子」を批判するのは可能だという証拠なんですが、驚くのは、同じ人が両方に賛同していることがあるんですね。とにかく批判さえできればいいという姿勢なのでしょう。

逆に、批判派は良いストーリーだと感じると、「男の子さえいなければ完璧だった」という結論になります。その一点で初めから納得する気がないのなら、そもそもストーリーを追って意見を言うことに意味はあるんでしょうか。中には「男の子さえいなければストーリーがダメでも構わない」と本末転倒な意見まで出ています。

「ショタ好き」「男好き」のためのキャラとするのは、擁護派のことを「ショタ好き」「男好き」と決めつけているわけですね。
しかし、多くの擁護派はそもそも「男の子」に執着しているわけではないでしょう。キュアミューズを見るたびに「小学生だなあ」と思ったり、キュアミルキーを場面に関係なく「宇宙人だなあ」と思ったりしないのと同じです。その要素に絡むことが起きなければ、もっと別なことの方に注目しているのです。

また、ストーリー上で「男の子」が絡むこと自体、あまりなかったと思います。公式サイドとしても、ひろプリの世界でも、男の子がプリキュアになれるのは自然なことであって、強調する理由もないのでしょう。
そうして無駄に強調しすぎないことで、ウィングはちゃんと溶け込めたと擁護派は捉えているのですが、批判派はそれも「男の子である必然性がない」「扱いが雑」と納得しないのです。良くない点を批判する一方、良い落としどころを描けば描いたで「批判を避ける逃げの姿勢」「『男の子』が表現を狭めている」と言うのです。
中には、「ウィング自体は悪くないけど」と、歯切れの悪い言い方をしてまで批判を試みる人も見かけました。

そもそも私には、「男の子である必然性」とは何かがよく分かりません。いくつか意見を見たことがありますが、「必然性」とは思えませんでした。
例えばキュアラメール/ローラが人魚なのは、海が舞台のトロプリの世界観と結びつきが強く、「必然性」に思えます。では、キュアミューズ/調辺アコが小学生である必然性とは何でしょうか?スイプリの世界観とは関係なさそうです。ミューズの他の要素、王女、生意気な性格、実年齢より年上に見せていた……なども、小学生とは関係ありません。
もし「なれる年齢の幅が広がっただけ」という話なら、男の子もまた「なれる性別の幅が広がっただけ」で片が付きます(ここで「女の子だって暴れたい」を口にしたくなった人は次の大見出し以降をご覧下さい)。
また、男の子の必然性を求めるのなら、男の子よりも前に出てきた「女の子でも男の子でもないプリキュア(1人ではない)」について聞きたいところです。

私はむしろ、キュアウィングを「男の子」としてばかり論じ、「男の子」に必然性を求め、様々なことをやたらと「男の子」のせいにする雑な主張の人たちこそ、随分と「男の子」に執着しているなあと感じますね。
こうした批判派の中には、「ひろプリに人気が出てほしくない」「プリキュア自体もう終わればいい」とファンであることを疑うレベルの発言すらする人もいるのですが、ここまで「男の子」への執着と憎悪に気を取られていると、まずストーリーを追うこと自体ができないんじゃないでしょうか。

それにしても、私は聞いたことがないので教えてほしいのですが、公式サイドはどこかで「キュアウィングは一部の大人ウケや男児ウケのために生み出した。女児なんてどうでもいい」と言ったのでしょうか?
新たなファンが付く効果はあるにしろ、私には公式サイドがあくまでも女児向けアニメのキャラクターとしてウィングを生み出し、女児に受け入れてもらう努力をしているようにしか見えません。
衣装騒動もそうですが、「ウィングは女児に嫌われている」という前提をまず見直してほしいですね。

【加害の助長?】

8月頃、プリキュアの着ぐるみを着た人物が、グリーティングのふりをして女児に接したと自慢し、公式サイドが注意喚起に至った「偽グリーティング事件」が起きました。

その際、この人物が男性らしいということから、男の子(男性)がプリキュアになろうとするのはやはり問題だ、という主張が批判派に見られました。

ウィングが偽グリーティングを招いたとでも言いたいのでしょうか。
当の人物がウィング擁護のコメントをしていたと持ち出すツイートもありましたが、この人物の使ったアイコンや着ぐるみがキュアスカイだったことには触れないのが、非常に作為的ですね。

前編で取り上げたお姫様抱っこについても、体に触れているからと性加害に結びつけようとする人がいます。

しかし、飛ばされそうな人を助けたかったら、体をある程度強く掴むのは当たり前です。仮にお姫様抱っこでない方法を取っても(腕一本で耐える、肩に担ぎ上げる、など)、批判派は結局文句を言う気がするのですが、どうでしょう。
ウィングはやましい目的でベタベタ触っているわけではないし、女性陣もそれを分かっているから問題視しない。それだけです。

また、ツバサが初登場時ソラの部屋に無断で入ったことも、性加害を助長するかのように語られました。女の子の安全が脅かされるから男の子はいらない、という主張です。
ついでにデパプリのマリちゃんもとばっちりを受けていました。成人男性が女子中学生の間に入り、抱きつくような動作をしているとあげつらわれています。
ツバサがソラの部屋に入った理由や、マリちゃんとプリキュアの関係性を切り取った上に、あたかも2人がファンの炎上を招いたかのような印象操作をしているのがいただけません。

こういうことを言っている人が、「お姫様抱っこや抱きつくどころかプリキュアをしっかり抱きしめたり、部屋に入るどころか何度も女子中学生と二人きりでいい雰囲気になったり、(プリキュア側からしたことではあるが)キスまでしている成人男性(5/5GoGo)」は絶賛したり、「正体を隠して不審な様子でプリキュアに近付き、恋人に使うような言葉で女子中学生に呼びかける成人男性(ドキプリ)」には好意的だったりするので、ダブルスタンダードもいいところです。この2人はマリちゃんやツバサと違って戦闘力がありませんが、それは問題行動をしているかどうかとは関係ないはずです。
(私自身はこの2人を問題視しているわけではなく、あくまで批判派のダブルスタンダードについて書いています)
本当は女の子の安全などどうでもよく、ただ気に入らないキャラを狙い撃ちしているだけなのでしょう。

【ついに陰謀論へ】

先程の性加害もそのうちに入りますが、批判派はかなり悪質な犯罪までもキュアウィングや男の子プリキュアと無理やり結びつけたことがあります(あまりにひどいので、具体例は挙げません)。
そんなこじつけはプリキュア以前に、その犯罪の被害者に大変失礼です。女児やプリキュアのためになる批判でも何でもないでしょう。

今年、偽グリーティング事件を含めファンの行動・発言が炎上することが何度かありましたが、批判派の結論は大概「男の子がプリキュアになったせい」でした。
以前も書いた「変なファンがついた」に含まれるでしょうが、初めて男の子が正式メンバーになった年に起きたから関係あるとか、男の子プリキュアのせいで男性ファンが増長したとか、そんな理屈を当然のように並べるのです。
キュアウィング自身が真面目で、仲間の女性陣に信頼されていることは全く無視して、ファンの問題をウィングの存在に背負わせるのです。

これはもはや陰謀論ですね。そのうち、猛暑や水害の発生も、物価の高騰も、世界で続く紛争も、全部キュアウィングや男の子プリキュアのせいだと言い出しかねません。そのレベルのこじつけです。

プリキュアの根幹と男の子

男の子がどうダメか以前に、そもそもプリキュアになることがおかしい、という主張もあります。

【「女の子」の捉え方】

「ふたりはプリキュア」のコンセプトの一つ「女の子だって暴れたい!」、これまでの主題歌に出てきた「女の子」や「ガールズ」という歌詞、過去作の「女の子は誰でもプリキュアになれる」というセリフが、男の子プリキュアを否定する根拠によく使われていました。

「暴れたい」については以下の記事に書きました。まず「暴れたい」とは何か、男の子がいるだけでできなくなることか、初代が打ち出したメッセージ一つで全シリーズを語れるのか。私はその辺りを考えたいです。

ちなみに以下のインタビューには、非常に興味深いことが書かれていました。

前編には「女の子だって暴れたい」に触れた箇所があり、後編では大人向け企画にも言及しながら、公式サイドが「プリキュアオールスターズF」の問いかけ「プリキュアって何?」を深く探っていたことが語られています。

例えば、『ふたりはプリキュア』の企画書に書かれていた「女の子だって暴れたい」というコンセプトが特に最近、誇張されて広がっているように感じています。
(中略)
もちろん他にも、制作陣がエッセンスとしてそれぞれのシリーズで入れている表現やメッセージは当然あります。でもそれは時代ごとに、子どもたちの方を向いて真剣に作ってきたからこそ出てきたものであり、それ自体が目的ではないと思うんです。深い部分を読み取ってもらえているのは嬉しいのですが、そこをことさら強調したくないというか。
(中略)
ただ20年も続いていれば当然色々な工夫はしてきたわけで。それだけ長いこと手を替え品を替えやってきたんだから、結果として別に男子のプリキュアだって1人や2人いたっておかしくはないでしょ、と。そういうふうに思っています。

「諦めなければ絶対に夢は叶う」なんて嘘は、つきたくない。『プリキュア』シリーズ、田中裕太監督の希望の伝え方【20周年インタビュー】

違う方に聞けば違う意見かもしれないので、この記事もまた、過剰に持ち上げるものではないでしょう。
また、公式サイドの考えとズレていようと、捉え方は視聴者の自由です。
ただ、ズレに気付いたときに「公式サイドが道を誤った」と決めつけるのは要注意です。

作品ごとにメッセージは様々あります。過去を踏まえてプリキュアとは何かを語るなら、「女の子だって~」だけではあまりにも足りないのではないでしょうか。
男の子プリキュアについても、「デパプリのブラペから流れがおかしくなった」という主張をよく見かけますが、振り返れば、もっと随分前からほのめかされていると思います。少なくともプリアラのピカリオくらい思い出してほしいです。

初代を「女の子だって~」で生み出した鷲尾天さんは、自ら男の子プリキュアを提案してもいます。しかし様々な発言を見る限り、「女の子だって~」がどうでもよくなったというわけではなく、むしろ今でも大切にしていることが伺えます。「女の子だって暴れたい」と男の子の存在は、公式サイドにとっては対立するものではないのでしょう。

そして主題歌やセリフは、まずはその作品を表すものです。後の作品の参考になることはあっても、制限をかけるものではありません。
プリキュアの位置付けやルールの設定など、大きな部分だけ見ても作品ごとに違いは多々あります。まして、その時出てきた言葉の表現を、別の作品にまで用いないといけない理由があるのでしょうか。何か違うものが出てくるたびに過去作の否定と受け取っていたらキリがありません。

そもそも、ウィングのいるひろプリの主題歌にさえ「Hero Girl」と歌詞にあるので、男の子を完全否定する意味で使われているわけではなさそうです。
意味を狭く捉えるなら、「女の子は誰でもプリキュア」については「誰でも」の部分に疑いが生じますしね。

こうしてみると私には、一部批判派は「女の子だって~」を支持していると言うより、批判に使えるものを都合良くピックアップしているだけに思えてしまいます。

実際、上記の記事の引用箇所に「そんなはずがない」というような反応が出ているのを既に見ました。
そして、その人たちは何も見聞きしなかったかのように、「女の子だって~」を何かと引き合いに出し続けているんですね。
「プリキュアはこういうものなんじゃないか」と考えるまでは分かりますが、公式サイドの方から明かしたことまで「そんなはずがない」と否定するのは、自分が制作者の立場にないことを忘れているとしか思えません。

私自身は、「女の子だって~」のコンセプトも、「女の子」が出てくる表現も、プリキュアの大切な一面だとは思っています。
男の子プリキュアの存在が、それらと激しくかけ離れているわけではないと考えているだけです。

【「プリティ」もいろいろ】

それと、「女の子だって暴れたい!」とはまるで反対の方向の、「男の子では「プリティ」を表現できないのでタイトルに合っていない」という主張も散見されます。
男の子だからプリティではない、かわいくない……今この時代に、そしてプリキュア20周年にそんなことを言うとは、驚きです。

キュアウィングの衣装は、ショートパンツに羽のような飾り、カラフルなボタン、小さなハット、などなど、「プリティ」なもの大集合です。それを着こなす本人は言うまでもありません。
もちろん個人の好みはあるでしょうが、「男の子」を理由にプリティではないと言うのであれば、それは目の前のプリティさそのものより、性別という他の情報を優先して判断しているということです。
つまり偏見です。

プリキュアは、女の子の側から、その手の偏見に対抗してきた作品のはずです。それこそ「女の子だって暴れたい!」もそうですし、「女らしく、男らしく」という描き方をしないよう気を付けていることが、何度も公式サイドから語られています。ひろプリでも、現実にはまだ珍しい女性パイロットが自然に描かれたりしていましたよね。
女の子の「プリティ」もみんな違う個性があるし、「カッコいい」に寄っている女の子だっていたはずです。初代のキュアブラック/美墨なぎさからして、カッコよかったでしょう。

当然、「男の子だからプリティではない」なんてことを、プリキュアが言うわけがありません。
(スマプリのポップは「かわいい」と言われるのを嫌がるキャラでしたが、「かわいい」と言われるような見た目ではあるわけです)

その辺りを全くスルーしているのに、「プリキュアとはこういうもの」という語り方で男の子プリキュアを批判していることが、私には信じがたいです。

今後は?

繰り返してきた通り、私は個人の好き嫌いや、批判的な姿勢自体に文句があるわけではありません。
作品や他のファンを悪意で貶める主張に、擁護派として反論したかったまでです。

キュアウィングを度を越した憎悪の言葉で呼んだり(わざわざ載せません)、「人気が出なければいい」「終わればいい」と作品ごと潰そうとしたり、擁護派に勝手なレッテル貼りをしたり、ウィング自体や公式サイドや擁護派を犯罪者であるかのように言ったり、おかしなこじつけや果ては陰謀論を口にしたり……。
他にも、新情報のたびに邪推や憶測で物を言ったり、妄想で歴史を書き換えたりする人もいます。

ここまでマイナス感情しか沸かないなら、なぜあえて見続けたのでしょう?
「好きな部分もあったから」と反論が聞こえそうですが、その好きな部分より嫌いな部分の方によほど執着しているではありませんか。好きだからこそする批判、筋の通った批判の範囲を超えています。
(せっかく視聴を避けても、何らかの形で首を突っ込み続けたり、他人の感想を読んでさも自分で見たかのように語ったりする人もいます。これも執着ですね)

「次に男の子プリキュアが出たらファンをやめる」と言う人もいます。「終わればいい」と相手に求めるよりはいくらかいいですが、今作の時点で既に限界だったように見えます。

何にせよ、男の子プリキュアが次作も出ることは現実的でないので、しばらくは何事もなかったかのように「プリキュアのファン」を名乗り続けるのでしょうね。

釈然としませんが、私は自分の願望に利用するためにプリキュアを応援しているわけではないので、新たな男の子プリキュアがもし未来にいるのなら、気長に待つことにします。

「スタンスと反論」は、しばらくは残しておきます。男の子プリキュアが次作以降登場しなければ、批判派も何も言わないはずなので、今後ブログを続けるとしたら”普通”の記事を書くと思います。
もし批判派から反響でもあれば答えるつもりはありますが、今のところその
気配はありません。私も批判派と直接対決するよりは、まず自分なりの考えをまとめたかったのが第一なので、わざわざ知らせに行ったりはしません。成り行きにまかせます。

ただ、今後また男の子プリキュアが登場し、批判派が騒ぎ出しても、私は今年ほどの勢いでは反論しない気がします。
同じことの繰り返しにしかならないでしょうし、何より、公式サイドが「男の子」をプリキュアになれるものとして扱い続けるのなら、それはキュアウィングの「成功」が作った道筋であるはずで、その点についてはもはやどんな批判があっても関係ないからです。

公式サイドには、キュアウィング/夕凪ツバサというキャラを出して良かったと思っていてほしいです。耳を傾けるべき批判と、そうでないものを見極めながら、これからも自由なアイディアを生み出してくれることを期待します。

ともかく、プリキュアは来年もあるので、私はひろプリのラストスパートを見届けつつ、次作に備えたいと思います。


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