klubnika report

国際情勢の把握とともに、ユーラシアとともに、美味しいもの・美しいものとともに

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広尾のカフェ・デ・プレでネット検索した記憶

ふとしたきっかけで「旅行人ノート、シルクロード 中央ユーラシアの国々」、2006年11月刊を見直している。https://amzn.asia/d/gfXY2vG 2009年に中央アジアで仕事をすることになり、日本語ガイドブックを探した時に候補に上ったのがこの本、タイトルの通り西安からイスタンブルへのシルクロード経路をカバーしている。これがなかなか、日本語でこのレベルの情報に驚き、というかなぜ存在しなかったのかと考えていた。Lonely PlanetやBradtもかなり詳しく

    • ソフィアのHotel Vitosha The New Otani

      東ベルリンのGrand Hotel Berlinのことを紹介したが、それ以前の1970年代に日本人建築家が設計したホテル、Hotel Vitosha The New Otaniがブルガリアのソフィアにある。 設計は当時既に世界的に名を馳せていた黒川紀章が設計、21階建、442室。建設はブルガリアのTehnoeksportstroyと三菱のJV、黒川は設計に際してBulgarian National Revival style of Koprivshtitsa and Plo

      • 東ベルリンのグランドホテル

        東ドイツ時代にInterhotel(東ドイツの高級ホテルチェーン)が発注し鹿島建設とスウェーデンのSiab(サブコン)が東ベルリンに建設したホテル、Grand Hotel Berlin, 今はThe Westin Grand Hotel. この土地には1873年に建てられたkaisergalerieという商業施設があったが1943年のベルリン空爆で倒壊、1957年に更地へ、その跡地に西側観光客の需要増に対応してベルリン建都750周年にあたる1987年に合わせてinterho

        • 冬のコルダイ峠(アルマティ-ビシケク)

          2007年2月27日、アルマティからビシケク(235㎞)へ車で戻る途中、コルダイ峠の手前の草原地帯で、ドライバーがトイレで停車した。 この時はビシケクからアルマティへ移動して元国税庁職員とアルマティで合流、2/26-3/9の間、アルマティとビシケクで聴き取り調査や国境管理施設、税関などの調査を一緒に実施し、ビシケク後は空路でタシケントへ移動し見送った。 アルマティからコルダイ峠手前までは路面の雪はなく普通に走って来たが、峠に差し掛かりアイスバーンになった。スタッドレスを履

        広尾のカフェ・デ・プレでネット検索した記憶

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        • 東京
          30本
        • 東欧
          9本
        • ロシア・旧ソ連圏
          15本
        • 日本
          23本
        • 中東
          7本
        • 東南アジア
          18本

        記事

          2020年2月28日の横浜ベイエリアと富士山

          2020/2/28の横浜ベイエリア、NH869羽田-マニラ便の離陸直後、運良く離陸してから旋回してこの位置に。横浜ベイブリッジが正面に。当時、既に新型コロナウィルスによる感染が拡大しWHOが新型コロナウィルスによるパンデミックの可能性を言及した。ベイブリッジ右側、大黒埠頭には香港から乗客を乗せて横浜港に寄港、停泊中のダイヤモンドプリンセス号も見える。 そして、NH869(HND-MNL)は相模湾から伊豆半島を横断、富士山を俯瞰、かなり近いルートを飛行した。この頃、IOC委員

          2020年2月28日の横浜ベイエリアと富士山

          国府宮はだか祭りと女性参加

          実家に近い稲沢・国府宮神社のはだか祭り、bbcが初の女性参加と報じているのは、もみ合いに先立ち、厄よけ祈願の布を結び付けたササを奉納する「儺追笹(なおいざさ)奉納」で、に女性団体が初めて参加した。願い事が書かれた布を結びつけた巨大なササを女性らが担ぎ、勢いよく境内に駆け込んで奉納した。 もみ合い同様、笹奉納もふんどし姿の男性が行うのが慣例だったため、これまで女性は参加できなかったが、地元の女性団体から要望があり、神社は女性の参加を禁止しておらず、着衣での奉納参加を受け入れた

          国府宮はだか祭りと女性参加

          ベーグルを焼いてみた(ホームベーカリー+ガスオーブン)

          2022年2月27日付、 ウクライナ情勢のニュースを観ていてポーランドという言葉が聞こえてきた。隣国だし、元々、ウクライナはポーランド・リトアニア王国の一部だったこともある。 それで2016年、2017年と2年続けて行ったクラコフを思い出し、クラコフのユダヤ人のパンがベーグルの大元だったことが頭に浮かび、家で焼けないかとホームベーカリー附属のレシピを見たらありました。ネットでも当然、容易に見つかったのです。 しばらくパンを焼いていなかったこともあり、焼いてみることに。そ

          ベーグルを焼いてみた(ホームベーカリー+ガスオーブン)

          モスクワ・コスモスホテル

          2017/2/26 1985年7月に泊まったモスクワのコスモスホテルの窓から見た風景と同じ風景の写真が視野に入った。 この写真のとおり、目の前が宇宙飛行士記念博物館と宇宙征服者のオベリスク、右側がVDNKh、中央の丸い建物が地下鉄駅VDNKh、写真には写っていないが正面奥にオスタンキノ・タワーが見えた。駐車場のバスは皆Ikarusだった。 大通りはプロスペクト・ミーラпр-т мира、平和大通り、現在はフライオーバーがある。そして、オベリスクの後ろに当時はなかったモノレ

          モスクワ・コスモスホテル

          Le Royal Ammanの裏のレストラン街

          2018/2/25 このホテル内に旧JBIC事務所があったと聞いている。 3サークルのこのLe Royal Ammanにはあまり縁がなかったが、このホテルの裏側に良さげなレストランが多くあった。アルメニア・レバノン料理レストランLevantもありよく行ったが事務所の職員はここがアルメニア料理との認識をしていなかったな。 アンマンにもアルメニア人コミュニティがありアルメニア教会も市役所の先の丘の上にある。彼らは第一次世界大戦期にオスマン帝国のアルメニア人がこの地に逃れてきた

          Le Royal Ammanの裏のレストラン街

          ハッサク(八朔)

          ハッサク(八朔) Citrus Hassaku Groupと言う柑橘類、妹の嫁ぎ先の空宅地に便宜的に植えられ、実を付けていたのでお裾分けをいただいた。 このハッサク、尾道に原木がある。万延年間(1860年)、村上水軍の城跡、青影山の南麓(広島県尾道市因島田熊町)に、浄土寺の第15世住職、小江恵徳上人の生家があり、その近くに生えた雑柑が「ハッサク」の原木であった。 因島には古くから多種類の雑柑があり、温暖な気候で柑橘類が育ちやすい自然条件が整っていたほかに、村上水軍が東南ア

          ハッサク(八朔)

          「生きる」黒澤明監督

          2023/2/25 黒澤明監督の「生きる」(1952年公開、モノクロ)を借りてきて観た。 この作品を知るきっかけは友人の父の夢、 ブランコに乗って「命短し」(ゴンドラの唄)を歌うんだけど、命の最後の灯を消費しているような感じで印象に残っている、とのことだった。 映画は題名通り「生きる」という普遍的なテーマを描くとともに、お役所仕事に代表される官僚主義を批判した内容で、今でも通じる内容、143分、映画を観たと言う映画で渡邊勘治役の志村喬の演技(視線)などなど見応えがあった

          「生きる」黒澤明監督

          2012年2月、モスクワ赤の広場

          2012年2月のモスクワ赤の広場、雪が溶け氷結してアイスバーンになっていた。その残雪のおかげで非常に明るかった、Nikon D3+17-35mmを手持ちで撮ったが、手振れしていることだろう。 この時はアルメニアYerevanの帰路、この時は成田からアエロフロートで往復した。往路は乗り継ぎでYerevanへ移動し、復路はモスクワで数日滞在することにした。モスクワはこれまで長期には滞在する機会なく、少しでも散策をしようとの意図だった。エレバンとタシケントには長期で滞在したが、モス

          2012年2月、モスクワ赤の広場

          エレバン火力発電所運転開始式

          2010/04/21、エレバン複合火力発電所(円借款供与)の運転開始式典、当時のセルジ・サルキシャン大統領が出席、右側がエネルギー大臣、日本側から河野駐ロシア大使の代理(アイスランド火山噴火で東京からモスクワに戻れず)の南公使(左から2人目)が出席、説明しているのはホバニシヤン発電所所長。ちなみに珍しく私(JICA)もその後ろに写っている。発電所を運転しているのは東電設計と発電所スタッフ。(写真はアルメニア大統領府) Inauguration Ceremony of Yer

          エレバン火力発電所運転開始式

          ゴラン高原の都市クネイトラ

          もう20年になる。2004年3月、シリア・ゴラン高原のQunritraクネイトラ県庁へ打合せに行った。 その後、旧クネイトラ市街地を視察、ここは第三次中東戦争(1967年6月)の最終日にイスラエルに占領され、第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)、1973年10月、ではシリア軍とイスラエル軍が激しい戦闘が行われた。 写真は元市街地、背景は手前がシリア軍が撤退する際に爆破した市街地、その先が現在の国境、国連監視区域なのでUNDOFの事務所が最前線にあり、その前に鉄条網が張って

          ゴラン高原の都市クネイトラ

          上空よりモンバサを俯瞰

          2017/1/25、 アディスアベバからダルエスサラームへ向かうエチオピア航空の機窓より、飛行ルートをみたらモンバサ上空を通過するようだったので準備していた。幸いにも内陸側を飛行だったのでモンバサ全体的が俯瞰できた。島とは認識していたがこんなだったのかと。 1988年3月にモンバサに数泊したし、南側のコーストにも宿泊した。記憶にあるのは毎日通った香港という中華食堂のカニ料理が美味しかったこと。当時、南北側へはフェリーで渡った、そして、バスでマリンディへ!一泊して翌日もバスに

          上空よりモンバサを俯瞰

          スラバヤの思い出

          A view from The Westin Surabaya 1995/96年のスラバヤです、会社の同僚・上司はインドネシア専門と言えるような人が多かったが私としてはこの時がインドネシア初で言葉も含めて苦労した。 最初、Hyatt Regency Surabaya(現Bumi Surabaya)に宿泊していた。その近くにテニスクラブがあった、多分、その前を車で通りかかって知ったのだろう。今はグーグルマップをみても見つからない、川の近く、政府系ビルに建て替わったのだろうか。

          スラバヤの思い出