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『Local Natural Environment』を伝え・考える Vol.4(先人たちの開拓史)

今回は、日本三大秘境にも選ばれている椎葉村のご紹介です。
仕事の都合で定期的に椎葉村に訪問しています。また、国見岳、扇山、三方山など、静で飛び切り美しい山々もあり休日の山時間でも楽しませていただいております。
冒頭にも記載しましたが、『秘境』と言われるがごとくアプローチは消してよい方ではありません。過去に比べれば断然良くはなっているようですが。
そもそも『日本三大秘境』とは、日本の自然や文化が残る離れて地域の事で、岐阜県の白川郷、徳島県の祖谷、宮崎県の椎葉村とされています。
ここでの椎葉村は、山岳信仰や民族芸が取り上げられているようです。
確かに僕のお客様も、多種多彩の方ですが、椎葉村で猟師としての一面もお持ちで、猟犬たちとの生活も大切にされています。

幸せそうなワンコ

観光地としても椎葉村の売りは、『秘境』なのですが、秘境には似つかはない、凄まじい歴史と圧巻の土木遺産があります。それが、今回僕が、ご紹介したい上椎葉ダムです。
上椎葉ダム(かみしいばダム)は、椎葉村(しいばそん)にある二級河川の耳川最上流部にあります。九州電力が管理を行う発電用ダムで、高さ111.0mのアーチ式コンクリートダム。日本で初めてとなる100メートル級の大規模アーチダムで、その後の日本の土木技術に多大な影響を与えたダムです。
耳川水系の水力発電所群の中核をなし、最大9万キロワットの電力を北九州工業地帯に送電する目的を持っているそうです。

あまり認知されていない『ダム湖百選』


ダムによって形成された人造湖は小説家・吉川英治によって日向椎葉湖(ひゅうがしいばこ)と命名され、2005年に地元・椎葉村の推薦によって財団法人ダム水源地環境整備センターよりダム湖百選の認定を受けている。

ダム建設により水没した村(文献では73戸)


2019年に「大きな調整能力を持つ発電用ダムとしては日本初の大規模アーチ式ダムで、戦後復興期に急増する九州の電力需要を支える上で大きな役割を果たした現役の土木構造物」として、土木学会選奨土木遺産に選ばました。

ダムの点検路を車が走っています。大きさがわかりますか。

(以下、Wikipedia引用)
計画の段階で高さが100メートルを超える大規模なものであったことから、日本発送電は海外技術顧問団にダムの型式に関する助言を依頼した。当初日本発送電側は重力式コンクリートダムの型式を想定していたが、海外技術顧問団の出した結論は両側岩盤が堅固な花崗岩であることから経済性に鑑みアーチ式コンクリートダムが妥当であるとの結論を出した。これに対し日本側は大いに困惑したという。

アーチダムについては海外で大規模なものが建設されていたが、日本ではアーチダムの建設は幾つかの理由で行われていなかった。
①耐震性の問題。
有数の地震国である日本では、地震に対するアーチダムの影響性が未知のものであった。このため特に地震が頻発する地域で大規模アーチダムを建設することに不安があった。
②地盤
今までが重力式構造ダム中心の考えのため、基礎的な対策や設計理論が発展途上であった。
③多雨地域である九州
洪水処理能力に対する不安が払拭できなかった。

そもそも当時の日本では、100メートルを超えるアーチダムの経験はなかった。だが、海外技術顧問団はアーチダムが最も地盤の点でダムサイトに適しているとの結論を出し、最終的に当時の日本で初となる大規模アーチダムが着手されることとなった。
しかし、安全面で一抹の不安が払拭できない日本発送電側は、ダムの設計に際して様々な変更を行った。
洪水処理のための洪水吐きに関しては、海外技術顧問団案の中央越流方式ではなく日本案のスキージャンプ式洪水吐きを採用、両岸から放流した水が跳ねて谷の中央部でぶつかることで巨大なエネルギーを相殺し堤体への影響を最小限にしようとした。

九州電力HPより

さらに極めて堅い良好な岩盤であったが、ダム堤体の厚さをより厚くした「厚肉アーチダム」としさらに現在の主流であるドーム型ではなく直立した円筒型のアーチダムを採用することで、貯水時の莫大な水圧や地震に耐えうる型式とした。

設計に慎重を期したことが窺える。

ここでも日本の技術力の高さと、先人たちの試行錯誤の環境配慮がうかがえますね。確かに、川や海には、ダムはよくないイメージです。しかし、現代のように『森の治水能力』も期待できなくなった今では、経済の発展(電力需給)の為だけではなく、人の命と財産もまもれているのかもしれません。
工事歴史
高さ110.0メートルのアーチ式コンクリートダムとしてダムの骨格が固まり1950年に着工された、翌1951年に全国九地域の電力会社に分割・民営化された。九州地方は九州電力が発電・送電・配電事業を全て継承し、ダム建設も九州電力が引き継いだ。1952年には本体工事に着手、40㎞離れた延岡市から建設資材を輸送したが隘路であったことから輸送は困難を極めた。
さらに、工事の進展に伴い様々な問題にも直面した。まず基礎岩盤を掘削した所予想を超える劣悪な岩盤であったことから、ダムサイトの位置を変更し再度掘削を開始した。

困難を極めた地形・地質。しかし、諦めずここをまさしく『堰き止めた』!


続いてアメリカから輸入した工作機械を用いて工事を実施したが、現場では重機の操作技術が未熟な作業員が多く、度々故障が発生した。そして最も工事関係者を悩ませたのは毎年襲い来る台風であった。台風による器材の流失や人的被害を毎年蒙っていたが、1954年9月の台風12号による被害は特に甚大で、耳川上流域で総雨量700ミリを超える記録的な豪雨がダム現場を襲った。これにより建設中の上椎葉発電所が損壊した他、建設プラント等多くの資材が流失・損壊し被害額は当時の額で4億円、工事進捗も半年遅延を余儀なくされた。
だが、肝心のダム本体は全く無傷であり、図らずもアーチダムの洪水に対する耐久性を証明することにもなった。

数々の難工事を経て、1955年にダム・発電所は完成した(今から69年前)。
総工費約130億円、建設に従事した労働者延べ500万人と九州電力の社運を賭けたプロジェクトは大団円を迎えた。だがこの栄光の陰に、難工事によって105名の殉職者を出す結果ともなった。

ダムを見下ろす位置にある女神像の看板です。

完成時ダム近傍には仏教・キリスト教・水神の3女神像を建立した「女神像公園」が整備され、公園内に慰霊碑が建立された。尊い人命を失ったことへの痛恨と追悼の意を込め建立したものである。
よくよく調べ、考えるとこのスケールの工事が、現代で行われたとして、わずか5年で完成させることはできないでしょう。
本当に昔の人たちの『やってみる』の行動力と始めたらやりきるという行為に感無量です。
アーチダムの技術は上椎葉ダムより始まり、その後宮城県の鳴子ダムでは工事の全てを日本人の手で行った。さらにアーチダム技術も進歩しより経済性に優れたドーム型アーチダムが和歌山県の殿山ダムによって初めて採用され、やがて日本のダムの歴史に燦然と輝く大プロジェクト・黒部ダムへとつながっていく。

宮崎県の秘境の技術の進化版『黒部ダム』

まとめ
今回伝えたいことは、やはり、先人たちの開拓史は感動します。
おそらく全国各地にその地、その地の先人達の血のにじむ開拓史があると思います。その行為が、本来の自然の姿を変えてしまっていたとしても、現代のその地に暮らす僕たちの生活があるのは、先人たちのその開拓による安定なのかもしれません。
ただ、原発のように人間の立ち入ってはいけない領域の開拓は別と考えます。(くしくも、上椎葉ダムの電力は、宮崎県の町の為ではなく、北九州の工業地帯の為。福島原発の電力は、関東圏内の電力需要の為に建設されてそうです。)あまりこの手の話をし出すと長くなるので割愛させていただきます。SDGs、環境保全、地域おこし、観光資源。
これらの課題は、課題でありながら答えは一つではありません。それぞれが微妙な接点を帯びながら、未来の地元の為、今の地元の山の為、これから大人になる子供たちの為にあるものを資源とし、先人たちの手法や努力を勉強し真似をしていくことで、遠くに行かなくとも今の自分たちの生活環境がどれほど恵まれ、温かいものなのか知ることができるのではないでしょうか。

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