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幸せのひらひら。

 旅立ちの日は突然に訪れるもので、私が大体一歳の誕生日を迎えるか否かくらいの時だった。二匹の二足歩行の生物が、目の前に突然現れた。両方とも身体中に細い凹凸が多くあり、その二匹は細かく私の身体を見回しながら何か音を発しだした。

 それ以前の私は、 一日の殆どを透明な容器に入れられていた。あそこはどうも息苦しく、何時間も大量の二足歩行に見られ続けるのは実に苦痛であった。だから彼等が来るといつも眠りについていた。

 今回もそうするつもりだったが、あまりにも音が止まないので、気になって目を開けてみた。その瞬間に二人は一度何処かへ行ってしまったので、帰ってしまったかと思ったが、今度は私の世話係を引き連れて戻ってきた。そしてその後すぐ、私はここを離れることとなった。

 ケースの外へ出され、今度は今までより更に小型のケースに入れられた。それは殆ど外を見ることが出来ず、網目から少し覗けるくらいであった。そしてその小さな隙間からは、身震いをしてしまうほどの華やかな世界が広がっていた。目を閉じてしまうほどの鋭い光や、上まで見ることが出来ない高く太い棒。また、赤く高速で走る物体など、私はとんでもない未知と出会ってしまったのだ。思わず二三度吠えてしまうと、二足歩行は高い音を発した。

 彼等の住む容器は、透明よりも遥かに広大であった。更に上は外と変わらず強い輝きを持ち、下はあまりにも柔らかい毛で覆われていた。出される食物はしっとりとしていて味が濃く、透明な容器とは比べ物にならない品であった。何度も夢を見ているのではないかと考え、その度に足を噛んでみたりした。

 私は自分の未来というものに不安があった。死ぬまで不味い飯を喰らい、狭苦しい寝床で眠り、多くの人間に見続けられるだけなのではないか、と。しかし、実際進んでみたらどうであろう。決して予想など出来ない、充足感の溢れる素晴らしい日々ではないか。

 勿論、全てが思い通りという訳ではなく、幾つかの不自由というのは存在する。

 まず、勝手に色々な場所へ行くのは出来ないこと。容器の中で私が自由に移動出来る場所は限られている。行ったことない箇所は存在するようだが、入ることは出来ない。また、外の世界に行くことが出来るのは、二足歩行の許可が必要であった。

 次に、二足歩行が私にいつも何か音を発し続けること。二足歩行には、背の高いのと低いのがいる。背の高いのは黒色のさらさらとした身体を持ち、基本的には容器の中にはいない。低いのの身体も似たような感触だが、高いのよりも足の上の方は膨らんでいて、毎日身体の色が変わってしまう不思議な生物だ。

 迷惑なのは低い方だ。高いのと違い、こっちは殆ど容器の中にいる。低いのが発する音は全て高く、そしてひたすら発し続けているので、耳にしぶとく残るほどうるさいのだ。おかげで睡眠不足になる日もある。

 しかしそれは妥協しなければならないだろう。少々文句があるくらいだ。些細なことで他の幸福を捨てるなんてとんでもない。私はこの生活にこれ以上を求める気はない。多少の不自由なら増えたって問題ないだろう。

 と、つい一ヶ月前くらいまでは思っていたのだ。不自由に感じる項目はそれぐらいのものだったのだ。だが、ある日からその考えを変えてしまうきっかけを与えられてしまった。

 その日は、いつもの目覚めだった。私が欠伸をしながらぐだっと足を重ねて座っ ていると、これまたいつものように高い音が聞こえてきた。ああ、飯を持ってきてくれたか、と思い立ち上がり、一度小さく吠えて待っていた。すぐに低いのは私の容器へ入ってきた。しかし、手に持つのは餌を入れる器ではない何かであった。

 それは、低いのの身体の形にとても似ていた。私の胴とほぼ同じの長さを持ち、薄っぺらくひらひらとしており、淡い桃の色や白の色などで塗られていた。

 低いのは屈み、私の目の前にひらひらを突き出した。出されてもどうしたら良いのか分からず、とりあえず臭いを嗅いでみたり、周りを歩いてみたりした。しばらく同じことを繰り返していると、低いのはひらひらを中央から破った。その瞬間に聞いたことのない低い音が聞こえたので、思わず少し後ろへ下がった。

 ひらひらを見せびらかすように持ちながら、私の上へ被せると、今度は腹に両方の前足を当てる。前足が離れて、私は何があったのか分からずに歩いてみると、さっき被せたひらひらは全く落ちず、身体に密着したままだった。落としてみようと走り回ったりしたが、一切落ちることはなかった。その様子を、低いのはいつもより高い音を発しながら見ていた。

 少し窮屈に感じたが、別に特別苦しい訳ではないから、大して気にはならなかった。それが気になり出したのは、その後すぐに行った外の世界での出来事だった。

肌に感じる温度は丁度よく、今日は特に気分が良かった。共に行く低いのは、いつもより少しだけ足早に歩いているようだ。私と同じ気持ちなのだろう。

 しばらく歩いていると、前方に二つの影が見えた。もう少し近づいてみると、その正体は近くの容器に住まう、顔に線が多いセンと呼んでいる私の同類であることがわかった。彼は私の半分くらいの高さしかなく、最初同類だと言われた時はとても驚いた。もう一つの影は、彼の世話係だ。

 低いのと世話係は、すぐ近くまで来ると、立ち止まって音を発し合い会話を始めたので、私もセンと話を始めようとした。しかし、私が挨拶をしてもなかなか言葉を発しようとしなかった。その時センはどうも変な顔をしているように見えた。どうかしたか、と私が尋ねると、センは私の背に顎を向け、それはなんだ、と逆に尋ねてきた。私もよく分からん、と返すと、彼はまた無言でジッと背を見続けるのだ。私は挨拶もしていないのに失礼な奴だと思い、同じく無言でいた。

 世話係同士の会話が終わり、低いのがまた歩き出したので、私は別れの挨拶もせず歩き出した。

 また少し歩いたところで、顔見知りと出会った。私と同じくらいの高さの男だが、身体を覆う毛がとても少ない。ケショウと呼んでいる奴だ。こいつはなかなか嫌な奴で、会う度に口が汚れていて汚らしいとか、いつ見ても馬鹿みたいな面をしてやがる、などと必ず私を煽ってくるのだ。

 そんな彼は、私の姿を近くで捉えるなり、大声で吠え始めた。

 何がそんなにおかしい、といらつきながら聞いてみると、そんな滑稽な格好をした奴が可笑しくないわけがない、と返してきた。私は、彼が私の背のひらひらを見ていることに気が付いた。

 これがどうかしたか、と尋ねてみる。彼は、それは二足歩行が着る服だ。世話係と同じ服を着るなんて、なんという醜態持ちだろう、と返してきた。そしてすぐ、近くの壁の上に顔を向けた。つられて向くと、とんがり目達が私のことを見ていた。とんがり目達は、私より鼻が低く、身軽な奴らだ。散歩している時に見かけると、いつも壁の上へと逃げていく臆病者達だ。

 そんなとんがり目達が何を考えているのかは分からないが、そのつり上がった目には嘲りが含まれているように感じられた。見ろ、あいつらにさえお前は滑稽に見えるのだ、ともう一度私を馬鹿にしたので、怒りを露わにしながら大きく吠えてみせたが、まるで動じず反対方向へ歩き出してしまった。

 容器に帰ってからも、彼の言った言葉はどうもこびりついた。いつものならただの悪口だと気にしないのだが、今日のは妙に引っかかる。確かに、今までこんな格好をした同類を見たことはなかったが、自分の姿がそこまで滑稽とは思えないのだ。解決しない思考を頭の中に巡らせながら、その日は眠りについた。

 そして、現在に至るまで、私は毎日あのひらひらを着続けている。半月くらい経った時に、ようやく私は理解した。ああ、やはりこの姿は滑稽なのだと。

 この一ヶ月間、ケショウ以外の同類とも何度か会う機会があったが、私のことを一匹としてまともな目で見る者はなかった。元々、私は同類の中でも美しい部類に入り、幾つかの女が身体を求めてきたことがあるくらいだったのだが、この姿になってからは女共も近寄って来ず、むしろ避けているようで、男共は遠目で私をじろじろと見てはげらげらと吠えるようになった。

 今だに低いのはこれを外す素振りを見せない。水浴びをする時に外されることはあったが、終わった瞬間にはまた付けられてしまうのだ。

妥協も必要。その考えは今でも変わりはしないが、流石にこれは範疇を超えてしまっているだろう。私が何度も抗議をしても、あいつはただ口の端を上げて高い音を発するだけだ。意見など聞きはしない。

 そして今日、もう何度目か分からない無意味な行為の末、ついに私の中に詰め込まれた怒りは溢れ出し始めてしまった。首を必死に背中に向け、ひらひらを力の限り破き、ばらばらに引き裂いた。前の方を破くと、背中の方は走り回っている内に落ちてきて、私は完全に元の姿に戻ることが出来、雄叫びを上げた。

 その音に気付き、低いのは容器へと入ってきた。どうだ、私の勝ちだと短く吠えると、低いのは顔を歪ませて、私を思いきり掴んで持ち上げた。その顔は、通常よりも線が増え、歪んでいた。加えて大きく長く音を発し出す。なるほど、こいつはひらひらを破かれて怒っているな、しかしこれはしょうがない。お前が意見に耳を傾けなかったからだ。ざまあみろ、などと考えている内に、私は外の世界への入り口へ連れて行かれ、そこの地面に降ろされていた。

 私はなぜ今外の世界へ行くのか疑問に思い、低いのを見ようと振り返ると、そこには壁があるだけで、低いのの姿はなかった。

 たまには私だけで外の世界へ行ってみろ、世話係がいなければ何も出来ないくせに、というわけだろう。こっちも紐がないまま旅をしてみたかったところだ、行ってやろうではないか。すぐに入り口から駆け出して行った。

 ああ、なんてことをしたのだ。辺りを見回してみても、暗闇とその中で輝く光と、大勢の二足歩行だけだ。美味い飯も柔らかい毛の地面も存在しない。ここは一体どこなのだろう。

私はとにかく駆け回った。二足歩行と共に住まう容器をひたすら探して。しかし、限られた世界にしか足を運んだことないため、自分のいる位置を掴むことが出来ない。眠くなってくる。こんな固い地では眠れない。腹が減ってくる。あるのは臭い緑ばかりだ。こんな悲惨な私を目撃しても、二足歩行達は一切助けようとはしない。

 ついに走り疲れた私は、二足歩行気の少ない、暗く固い地の上に倒れこんでしまった。もう、幾時を外の世界で過ごしたのだろう。考えることも上手くは出来ない。ただ流れ込んでくるのは、透明で味わった未来への不安だった。ただ、今はそれだけではない。私に先が存在するのかが不安でならない。きっとここで終えるのだろう。もうまとまらない考えは頭の中を回った。

 その時であった。遠くの方から何か音が聞こえてきた。無意味な二足歩行が来たのだろう。私はそれを見る気になれなかった。もう一度音が聞こえる。今度はそれが高い音だと認識が出来た。

 そう、高い音であった。二足歩行達の音をあまり意識したことはなかったが、この音だけには記憶がある。そう、低いのがいつも発するうるさい音だ。

 私は力を振り絞って四つの足を無理矢理立たせ、音の方向へと動かし始めた。思うようには進まないが、それでも少しずつは前へ行けた。

 今度は姿も見えてきた。間違いない。あいつだ。光を持ちながらこっちへ向かってくる。

 低いのは走ってきて、私を思いきり抱きしめた。今回も顔に線が多く、またうるさく音を発し出したが、目からは水がぽつぽつと流れていた。私はそれを見た途端、意識が深く深く沈んでいってしまった。

 私の生活は、一瞬にして元へと戻った。美味い飯と柔らかい毛の地面。考えてみればほんの少しの時間であったが、あの時間がまるで永久であったかのように今でも感じられる。あんな体験は、二度もあってはならないものだ。

 朝になり、低いのは私の容器へ入ってきた。昨日は言うことは出来なかったため、今日代わりに言おう。私にも非はあった。お前が意見を聞いていないのと同じで、私もお前の意見を聞いていなかった。だから今からもう一度――、

 私の話を遮り、低いのは私の身体に何かを付けた。この感覚には覚えがある。一ヶ月間、ずっと味わってきたものだ。

 低いのの顔を見上げる。私の話を聞く気はないのか、と文句を言おうとしたが、記憶はそれを留まらせた。もう、逆らうのは止めよう。これに従っていれば、充分な幸せを手に入れられる。同類に何を言われても構わない。そうだ、これが私の未来を結びつけるものなのだ。どうにかそう考えて、自分の頭を納得させた。

 私はその後、死ぬまで幸福な暮らしをした。あいつが持って来る様々なひらひらを、いつも身体にまといながら。

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『幸せのひらひら。』 著・水井くま

※この作品は読切です。


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