秋の作品発表会

Kmit秋の作品発表会2016(後編)

12月初めに行った作品発表会の小説を公開します。

テーマは三大噺「トランプ」「毛糸」「みち(漢字変換自由)」、分量は2000字程度です。





④「覚めない」     るり紺

 ジリリリリリリ

 目覚まし時計のなる音が突然耳をつんざいた。ぼんやりとする頭をおこしアラームを止める。はっきりとしない視界は、まだ青色の風景を微かに写している。夢を見ていたのだ。なにか、青い物につつまれたのだけは覚えている。最近引っ越しをしたばかりなので、新しい街並みをながめる夢でも見たのかもしれない。

 うららかな春を見せるように窓の外は太陽の光にみちている。出かけるには素晴らしい天気だ。いつまでも布団をかぶっているわけにもいかないので、眠気とぬくもりを振り払うように勢いよく掛布をはいだ。久々の休日にあたる今日は、新居のまわりを散策しようと決めていた。この心地よい晴れ日に合う服はないかと洋服たんすをあけてなかを見るが、求めている色は見つからない。

 昔から、赤や黒といった濃い色合いの洋服ばかり好んで着ていたので、なかなか淡い色の物をとることはなかった。今日も何気ない一日をすごそうと思っていたら、何も考えずにいつもと同じ色の服を着ていただろう。結局春らしい色の服は見つからず、せめてお気に入りの洋服でも着ていこうと、トランプの絵柄がプリントされたシャツを選んだ。上の服に合うように、フリルがたくさんついた黒のスカートをはいた。

 これから歩く新しい町には私のことを待っている何かがいるような気がして高揚するばかりだった。

 

 

 アパートを出て最初の角を曲がると、長い坂道が見えてくる。この坂道沿いにはいくつかお店がならんでいて、家さがしをしている時から気になっていた。坂道を下りながら気ままにながめていると、おしゃれなアンティークのお店やブティック、雑貨屋などが目に入る。どのお店にも入ってみたいけれど、初めて入るのは緊張する。手をだそうとしては引っ込めて、扉を開けられずにずるずると次の店へ次の店へと歩いていくうちに、ショーウィンドーから私を見つめるものがいるのに気付いた。ブロンドの巻き毛にまつげの長い翠色の艶やかな目、薄ピンクの唇に雪のように白い頬を赤くそめた西洋人形だ。足を行儀よくそろえて小さな椅子に座っているすがたがかわいらしい。もっとよく見ようと近くによってみて驚いた。彼女の着ているのは、トランプの柄のシャツに黒いフリルのたくさんついたスカートだった。こんな偶然があるだろうか。

 なおも人形は翠の瞳をこちらにむけ、自分を見てくれと言っているようで背筋がぞくりとする。けれど、どうしてもその服装が気になり私は恐る恐る店のドアノブに触れた。

 店内は暗めの照明に照らされ、所狭しと並べられた棚にはティーカップや燭台やランプなどが隙間なく陳列している。そのどれにも目はむけず、真っ先に西洋人形のもとへ足を運ぶ。涙型のクリスタルがたくさんつけられた、黒いシャンデリアの下にそれはあった。

 私は両手で人形の脇腹あたりをつかみ、椅子から持ち上げた。思ったよりもずっしりしている。改めて頭からつま先までながめてみるが、髪や靴を除いて本当に自分とそっくりな格好をしている。まるで自分がもう一人いるみたいで気味が悪い。この洋服を、いったいだれが着せたのだろうか。翠色の目がまた私を見つめている。すると、頭のなかではっきりと彼女の声がした。

「きづいて、あなたがいまどこにいるのかきづいて」

 体が震えて思わず人形を落としそうになった。人形の声が聞こえるなんて、自分は幻覚でも見ているのだろうか、それとも気が狂ってしまったのだろうか。どちらにせよ、あまりいいことではない。荷物の片付けや、慣れない場所からの出勤などあって疲れてしまっているのだろう。

「きづいて、ねぇ、きづいて」

 おかしい、まだ聞こえてくる。やわらかな脇腹に触れる手がわなわなと震える。頭の奥がうずいて気分が悪い。

「きづいて」

「やめて!」 

 とうとう私の手は人形を離し、それはごつんと音をたてて床に転げ落ちた。

「どうされましたか?」

 店の奥から女性の声が聞こえてくる。いけない。私はとっさに人形を拾ってもとの位置に戻した。見たところ、壊れたりはしていない。

「お客様、どうされたのですか?」

 丸眼鏡をかけた年配の女性がやってきて、私を疑わしそうに見る。冷や汗の出てきた額をぬぐいながら、頭を下げた。

「すいません。体調がすぐれなくて、何でもないですから」

 なおもいぶかしげに見ながら、女性はまた奥に去っていった。

 逃げるようにアンティークショップを出てから、向かいの道へ移動することにした。さきほどのショーウィンドーはなるべく見ないように道路を渡る。頭上には満開の桜の花が咲いていて、一歩進むごとに私の体に触れてはまた落ちていくさまがなんとも刹那的で美しかった。向かいの道をまた下へ下っていると、看板の下に大きくSALEと書かれたブティックを見つけた。外からちらと店内を覗くと、淡いピンク色の毛糸で編まれたセーターが目にうつる。

「春にぴったりな色…これだ!」

 私はすぐに店内に入り、SALE棚に置かれたあのセーターとそれに合う白いロングスカートを選び会計を急いだ。

「今ここで着ていきたいんです」

「構いませんが、お客様こちらは冬物ですよ?」

「いいんです!」

 強めの口調に驚いた顔の店員は、すぐに帰着室へ案内してくれた。もらった紙袋にトランプの柄のシャツと黒のスカートを詰めて、すばやく着替える。真新しい服で店を出た時には安どのため息がもれた。人形の呪縛から解き放たれたかのように気分が軽い。

 桜の花びらがセーターにひらりと落ちる。花びらの色とセーターの色が混じりあって、ぴたりとくっついた。桜のはかない香りがする。なぜだろう、この服を着るまで嗅いだことはなかったのに。この香りのせいだろうか、思考はぼんやりとし、彼らが喋りだしても私はなんの恐れも抱かなかった。

「あなたのいろ、わたしたちのいろとおんなじね」

 花びらが私に話し掛けた。やわらかくてあたたかいやさしい声。この声は、薄桃色の小さなかわいい唇から流れているに違いない。すっかり桜の美しさに酔いしれた。

「あなたもつれていってあげる。わたしたちのおうち」

「みちをつくってあげる」

「おうちへのみち」

 花びらたちはつぎつぎと舞い上がり、坂下へいっせいに舞っていく。

「さあ、ここをくだって」

「わたしたちといっしょにくだって」

 私は桜の華麗な花吹雪にすっかり気分がよくなって、下へ下へと駆けた。桜の木々は私が走るのにあわせて枝を揺らし、花びらを振りまく。その花びらが体に混ざり合い、まるで自分が桜になったかのように風のなかを泳いだ。永遠と続くかと思われた桜並木の奥に青空が見えてきていた。並木道を抜けると、春の花々に覆われた岬にでた。

 

 

 目前に広がる青い光景が視界をつつむ。どこか懐かしい風景。花々に覆われた岬はやさしく私を誘う。どこからともなく吹いてくる風は、足元に触れる青々とした草花とともに前に前にこの身体を押し出そうとする。

「わたしたちのおうちよ」

「ここのとちでさいたはなはみんなうみにかえるの」

 耳を掠める花びらたちが私に話し掛けるあいだにも、つぎつぎと他の花びらたちが海へと舞っていく。そうだ、ここの土地は海に近かった。

「わたしも」

「わたしたちも」

 タンポポやスイトピーも言う。

「さあ、こわがらないで」

 紫色につやめくムスカリがそっとささやく。

「うみはあなたのみかたよ、きっとこころよくむかえてくれるわ」

 ムスカリの隣で鉄線が大きな頭をゆらしながら言う。

 花たちの甘いささやきに導かれて、岬の先のほうへと歩みを進める。穏やかな海の音が耳に心地よい。私が足下の植物たちを踏みしめると、うふふとすこし気味の悪い笑い声をだした。痛いのだろうか。一歩足を踏みだすと、ぐしゃりと茎の折れる音がするのだから痛いに違いない。折れた茎は、その折れ目から黄緑色の汁をだし、それを私の足に染み渡らせた。まるで植物の血に触れたようだった。

 とうとう岬の先端に来た。下を見ると、たくさんの桜の花びらが藍色の海の上に身を沈めていた。まるで死んだように色あせている。崖の下と上では世界がまるで違っている。

「私、この下には降りたくない。本当に行かなければだめなの?」

 恐る恐る、桜に問いかけた。

「だめよ、だめにきまっているじゃない」

「せっかくあなたをここまでつれてきてあげたのに」

「そうよ、それにあなたのいろはわたしたちとおんなじいろじゃない!」

 急に桜吹雪が強くなった。花びらたちは私の体を激しくたたく。かすかに、後ろの並木道から獣の唸り声のような音が鳴っている。音はだんだんと近づいてくる。後ろを振り向くと、先ほどまでとは比べ物にならないほど大量の桜の花びらが、雪崩のようにこちらに流れてきた。

「あっ」

 花びらに押されて、私は海の底へと真っ逆さまに落ちた。

 

 

 

 ジリリリリリリ

 目覚まし時計のなる音が突然耳をつんざいた。ぼんやりとする頭をおこしアラームを止める。はっきりとしない視界は、まだ青色の風景を微かに写している。夢を見ていたのだ。

 窓の外を見て、気分は高揚する。新しい町を散策するには丁度良い快晴だった。

 

 

 

⑤キングの冗談。     水井くま

 昔、こんなことがあった。確か地元にある小さな祭りだった覚えがあるが、地域住民はその日の為に習っている芸事、古典芸能に分類されるものからポップ曲のカラオケ大会まで、もう少しまとめた方が良いのではないか、と度々思うぐらい様々なジャンルで自身を披露する。私も家が近い為、子供の頃からよく遊びに行っていた。だから年齢が定かではないが、まあせいぜい小学校三年生くらいの時だろう。

 親に手を引かれ、もう家に帰る直前であった。丁度広場から私の好きな歌が聞こえて来たので、気になって親に呼びかけ、寄っていってみることにした。まばらまばらな人円の中心には、独りの男が立っていた。男は胡散臭く全身を黒いスーツでかため、顔にはサングラスをかけていたが、それだけ黒で揃えているのに髪は鮮やかな金色であった。流れていた音楽とは、その男が行うマジックのBGM、ただそれだけだったのだ。

 マジックショーは既にスタートしていた。男は右手にボールペンを持ち、「如何でしょう。」と自慢気に話すと、観客はちらほらと拍手を返した。何か一つのマジックが終了したようだ。本当はそこで帰っても良かった(歌が聞こえた理由が分かったからだ)のだが、母も折角来たのだから見て行こう、という雰囲気を子供ながらに感じたので、取り敢えずは私もそれに従ってみることにした。

 男が右手を上げると、また何か始まるのかと視線が集中し始めた。その手が男の後頭部へ移動すると、ぐしゃぐしゃになっている髪の毛から一本抜き、それを両手でもって引っ張りながら見せつけた。そんな汚い毛を堂々とこっちへ向けるな、と苦笑しながら軽く目を背ける女性が何人かいたが、それも構わず毛を親指と人差し指で何度も何度もなぞった。しばらくぼっと見ていると、どうも毛が太くなったように感じ、目を擦ってまた確認してみるが、やはりその色の幅が増えているのだ。それは予想通りで、男が指でなぞる毎に髪の毛が、一本、二本、四本、八本…と段々と増えていき、最期に勢い強く引っ張ると、それは瞬きよりも早く、端と端が固く結ばれている美しい金色の毛糸へと姿を変えてしまった。 一瞬の遅れの後、人々は拍手を男に送った。私も子供らしいうるさい拍手をすると、男は観客を見渡してお辞儀をした。

 さて続きましては、と流れるように話し、次の小道具を鞄から取り出した。マジックとしては頻繁に使用される、どこにでも売っているようなトランプであった。勿論タネが仕掛けられてない(ように見せているだけかもしれないが)ことを証明する為、まだ封が切られていない新品の物だった。男はまた観客を見渡すと、丁度良く私と目が合ったからか、近付いてきてトランプを渡してきた。どういうことなのかよく分からず身体をふらふらとさせていると、母が「中を開けてみなさい。」というので、なるべく綺麗に開くようにゆっくりとシールを剥がし、中身のカードを取り出した。更に母が、カードを広げてみろ、という旨のことを言うので、ちらちらと確認してすぐに男へ返してしまった。私が子供だ からか、念のためなのかは知らないが、その後別の人(一カップルの女の方だった気がする)にもう一度カードを調べさせ、満足して中心へ戻っていった。

 さて、男はカードの山札を右手に、毛糸を左に持って握ると、左手の人差し指でカードの中心を撫で回したり、強く押したりするが、別段変わったことはなかった。それでもマジックならば何か不思議なことが起きるのだろうと期待していると、今度はその指で毛糸を摘み、先程いじっていたカードの中心にその先端を押し付け始めた。大人なら大体ここで何が起きるのか分かってしまうだろう。最後に二つを遠くに離し、勢いよくぶつけると、柔らかいはずの毛糸がカードの束を綺麗に貫通してしまった。穴もサイズぴったりの綺麗な形だ。とはいえこれはそこまで反応がよくなかった。ただ、この技はまだ終わりではなく、男は毛糸の片端を左手で持ち縦に垂らすと、右手でそれぞれのカードの角を 軽く叩き、まるで目当てのカードを探しているような素振りをした。漸く指が止まると、そのカードを上に引っ張り上げる。そこはやはりマジックなので、上に引き抜いたならカードが破れるはずなのに、傷一つ、穴一つもない綺麗な状態のままだった。

 その右手で摘んだカードはよく覚えている。クラブのKであった。私はキングの目をじっと見ていた。その視線が男の視線とまた合ったかと思ったら、その目のすぐ隣にあったはずのキングは姿を消していて、辺りはまた拍手に包まれていた。その後母が言うには、男が手を横に少し振った瞬間、突風にでも流れされてしまったようだったらしい。

 では、そのカードは一体何処へ現れるのだろうか。観客も私もその答えが知りたくてじっと待っていたが、男は皆に一礼をすると、音楽を止めてなんとそのまま片付けに入ってしまったのだ。これには流石に拍子抜けをして、人々は何処か納得の出来ない顔で立ち去って行った。私達も歩き出そうとした丁度その時、母の携帯電話が鳴ってしまったので、しばらくその場に待たされることになった。

 すると片付けの終わった男が、私に(不気味な雰囲気で)微笑みながら近付いてきた。警戒してその姿を上から下まで見ていると、男の指(近くで見るととても細く感じた)は私の腹を示して、

「そこを触ってごらん」

 と囁くので、恐る恐る服の上から触れてみると、何か平らで固い、丸い角のような物に当たった。改めて直接肌に触ってみると、それが腹の中にあることが分かった。

「大丈夫さ。君は選ばれたんだ」

 そう告げられ、それ以降男と会う事は二度となかった。

 

 私は大人になり、現在に至る。ライバルとはとても僅差であったが、私が多くの票を手に入れる事が出来た。壇上に立った時、あの時のように腹に触れる。丸角は未だ消えることなく残っている。一体これが何なのか調べていない。

 もしかしたら今まで選ばれた皆も同じような経験をしているのかもしれない。誰もが子供時代の何処かで、そんな不思議な体験から王を手に入れているのかもしれない。

 さて、本当はどうなのだろうか。まあそんなことはどうでもいいのだ。

 人間なんて意外と単純なものだろう? ハハハ・・・、

 

 

 

 ⑥地獄への道は善意で舗装されている     丸永路文

 列車は淡々と、鉄路を進んで行く。地方路線らしく、ゆったりと走る車輌の中には、僕とミチの二人しかいなかった。車窓から差し込んだ夕日が、向かいに座る彼女を照らしている。

「はい、私の勝ち」

 僕の手札の中から一枚カードを手に取ると、彼女はしたり顔でそう言った。やはりカードゲームでは敵わない。今回は惜しいところまで行ったのだが、あっと言う間に負けてしまった。

「あなたは本当に、トランプが苦手ね。まさか一回も私に勝てないなんて」

 全く彼女の言う通りで、ババ抜きに限らず他のゲームでも勝てた試しが無い。結局、最後までポーカーフェイスは身に着けられなかったようだ。

 ミチはトランプに飽きたのか、カードを片づけ始めていた。未だ勝利の余韻に浸っているらしく、鼻歌を歌いながら片づけをしている。

 不意に、列車がスピードを落としているのに気が付く。列車はそろりそろりとホームに入って行き、やがて停止した。駅名表示を確認すると、目的地の駅だった。列車に揺られ続けて約二時間。ようやく到着した。

 荷物を持ってホームへ降りると、暖房の効いた車内とは打って変わって、痛いほど冷たい風が僕たちを襲った。思わずマフラーに顔をうずめる。毛糸に無精髭が絡まってちくちくするが、背に腹は代えられない。

「髭、剃って来ればよかったのに」

 僕の様子を見ながら、おかしそうにミチが言う。

 今日は、彼女が良く笑ってくれている。最近は一緒に居ても辛そうにしていることが多かったが、今はそんな様子は微塵も感じさせない。いつものように、にこやかに笑ってくれている。

 そんなことを考えていると、唸るような音と共に、また強い風が吹いた。僕たちは急かされるように駅を後にし、予約していた宿へと向かった。

 宿は小さいながら立派な旅館だった。着いた時にはすでに日は沈んでいたが、部屋から見える景色は最高で、雪で覆われた雄大な山々が見渡せると、女将が教えてくれた。食事に関しては期待していなかったが案外美味しく、二人であっという間に平らげてしまった。

 食事を終えて部屋に戻ると、すでに布団が敷かれていた。移動の疲れと満腹になった心地よさから布団に勢いよく寝転がると、ミチが僕のそばに腰かけた。

「もう眠るの?」

「いや、横になっただけだよ」

 そう言うと、彼女は安心したようにふっと微笑む。二人の最後の旅行だから、きっと夜遅くまで起きていたいのだろう。僕は起き上がると、冷蔵庫から缶チューハイを二本取り出し、一本をミチに渡した。普段お酒はあまり飲まないが、今夜ばかりは特別だ。

 二人ともアルコールは強い方ではないからか、ひとたび酒が入ると、僕たちは途端に饒舌になる。結局、眠りに就いたのは、東の空が白み始めてからだった。

 

 

 ミチの声で目を覚ますと、すでに日は高く昇っていた。

「おはよう。朝ご飯、もう終わってしまったわよ」

 昨日あれほど話し込んだにもかかわらず、彼女はちっとも疲れていない様子だ。

「せめてもう一時間だけ寝かせてほしかったな」

「そんなことをしていたら、チェックアウトの時間が過ぎてしまうでしょう。さあ、早く起きて」

 最後の日でも、相変わらず彼女は朝に強い。僕は苦笑いしながら身支度を整え始めた。

 結局、チェックアウトの時間を大幅に過ぎてから漸く僕たちは宿を後にした。旅館を出る頃になると、それまで晴れていた空に、どこからともなく暗い雲がかかり始めていた。山間部の天候は急に変わりやすい。雲は刻々とその暗さを増し、おまけに風も吹き始めた。これはいよいよ、吹雪になるかもしれない。目的の場所までは路線バスを利用するので、道路が通行止めになるのは厄介だ。急ぎ足でバス停に向かった。

 バスに乗ってすぐに、雪が降り始めた。案の定、雪は瞬く間に本降りとなり、目的の停留所へ到着する頃には、かなり強くなっていた。

 バスを降りて、山の中へ向かう。入山禁止の看板が出ていたが、吹雪で見えなかったことにして先を急いだ。

 しばらく進むと、それまで木々で狭かった視界が急に開けた。目の前には、僕たちを飲み込むように、雪原が広がっていた。

「ここにしましょう」

 ミチがぽつりと告げた。僕はうなずいて、作業に取り掛かる。旅行鞄から折りたたみ式のスコップを取り出し、ちょうど二人が収まる程度の大きさの穴を掘る。ミチも手伝ってくれたおかげで、掘り終えるまでには時間はかからなかった。

 ふと、先ほど来た道を振り返る。僕たちの足跡は、すでに消えていた。

 もう、常世に未練などない。僕たちはこれから、誰にも邪魔されない場所で暮らすのだ。

 出来たばかりの新居に、ミチと入る。ほんの少し狭いが、もう少しの辛抱だ。

 ミチが取り出した薬を、僕に渡す。僕はウォッカとグラスを取り出し、グラスを一つ、彼女に渡す。透明な液体を二つのグラスに注ぎ、乾杯の後に薬と共に流し込む。途端に焼けるような感覚が喉を襲った。

 すぐに、体が暖まり始めた。これで準備はすべて完了した。後は時が来るのを待つだけだ。

「ああ、体が暖かくなってきたわ。ねえ、最期に、お話ししましょう」

 僕とミチは互いの体を抱き寄せると、沢山のことを話した。初めて出会った時のこと、初めてのデートの時のこと、僕が彼女に告白した時のこと、彼女の病が発覚した時のこと、そして、最期の旅行のこと。

 やがて、二人の口数が少なくなり始めた。そろそろ、時間なのだろう。もう、瞼が開いているのか、くっついているのか分からない。吹雪の音も、もう聞こえない。

「私のこと、離さないでね」

 最期に聞こえたのは、いとしい彼女の声だった。

 

 

 二十日午前九時ごろ、○○市☓☓山登山道付近で、男女二名の遺体を登山客が発見した。○○署は二名の身元の確認を急ぐとともに、事件事故の両面で捜査を開始した。同署によると、遺体はどちらも二十代で、遺体は損壊しておらず、目立った外傷もない状態で見つかった。 

 五月二十日 地元新聞夕刊より

 

 

 

⑦ネコの王様     久坂 蓮

 バイトからの帰り道、黒とベージュと灰いろの毛糸を織りまぜたカシミアのマフラーに首をちぢこめ、白い息を吐きながらひとり歩いていると、猫にであった。猫は道のはじにすわって、前足を丁寧になんども舐め毛づくろいをしていた。虎柄でどぶねずみいろ、はっきりいって、一目で野良だとわかってしまうような猫だった。夜眼だったしいろも地味だから、からだの輪郭がぼんやりとしていて、どこまでが夜の大気なのか、どこまでがからだなのかあいまいだった。近づくと警戒したのか、すくっと四つ足でたちあがり、背をむけた。尻尾が極端に短かかった。仲間との喧嘩で、噛みちぎられてしまったのかもしれない。あるいは人間に、虐待されたのかもしれない。まえにすこしだけ歩き、こちらを向きなおった。

 わたしは人と話すときもそうだが、相手の眼を凝視してしまう癖があり、猫が、にゃあああああ。とながい声をだすあいだ、眼をあわせつづけた。全体、猫の眼ほどうつくしいものは、この世にないと、わたしは常々おもうのだが、この野良のひとみは格別うつくしい円形で、ちょうどその日の、月が落ちてきたようだった。

 にゃああああ。とかえすと、猫はそのおおきなひとみの輝きをますますまし、後ろあしだけでたちあがった。

 これはこれは。いやはや。なんとまあ。

 野良は、にんげんの日本語をはなした。驚くことはない。わたしはまえから、猫がにゃあとしか鳴けないはずがないと睨んでいたので、やはりなとおもった。

 まあまあ。こんなところで、おあいできるとは。

 いや。いや。困ったなあ。

 猫は左の前足で頭をかいた。あたりに星屑みたくノミが飛んだ。

 ニジマスの、一匹ももっとらんもんで、もうしわけございあせん。

 はあ。とわたしはかえした。

 あたくしは桜貝横町の、三千二百番路地にすんでおりやす、猫田猫蔵でありやす。ははあ。

 そういって今度は、地面に腹ばいになった。ははあ。王様。とくりかえした。どうかお顔をあげてください。とわたしがこたえると、そんな。めっそうもございやせん。と腹ばいのままかぶりをふった。

 わたくしめはみじめな猫でして、人間に化けたのがばれ、尾を切られてしやいました。貴方さまのように、髭もなく耳もほおの横にちゃんと備えた、立派なヒト男のなりには、ついぞなれやせんでした。うわさに聞く猫王さまとは、あなたさまのことでありましょう。

 顔をあげわたしのほうを見たので、はあ、とかえした。

 ささやかな贈り物でございやすが、どうかお受け取りくだされ。

 両手のひらに包んでさしだされたのは、腕時計だった。

 純砂金でありやす。せがれが、鉄鋼をいとなんでいるものですから。

 さあさあ。と猫はかがんだわたしの胸に時計を押しつけると、そのままとなりの家の、生垣のなかに、はいっていってしまった。

 時計の文字盤は、右半分が翡翠いろで、左は桃いろだった。短針も長針もない。闇のなかでも、ひかりをはなっていた。今度野良猫に会ったら、見せてみよう、とおもいながら鼻をすすった。






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Kmit秋の作品発表会2016(前編) 著:るり紺・水井くま・丸永路文・久坂蓮

担当編集:水井くま

編集・日本大学芸術学部文芸学科所属 出版サークルKMIT

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