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1/25|文章を書くことについて

写真をやっている自分が文章を書くことについて、それはある意味セラピーのようだと思っている。普段、写真のことも仕事のことも家族のこともいろんなことを考えて頭の中が整理しきれていない。割合でいうと2/3くらいは写真のことで大渋滞を起こしている。日々起きたことをつづっても大したことがないので、キャパの大半を占めている写真のことをひたすらつづってみる。毎日更新するものに関してはなるべく筋道も立てず、推敲も適当に量だけこなすようにしている。写真は自分の無意識の確認もできるみたいなことをさらっと別記事にも書いたけど、つらつらと言葉を並べていくのも頭の中の整理をする上でなんとなく役に立つような気がしている。勢いで書く文章がだんだんまともになってくれたらなんていう期待もある。しっかりした文章を書くために量をこなして試してみる。毎日更新するのも難しいけど、なるべくトレーニングとして更新していきたい。

というわけで、ここに文章を並べていくのは写真とは違う軸でのトレーニングになるわけだけど、写真を絡める記録にするのであれば、写真と言葉には主従関係があると思っている。今日はその件について残していくことにした。

写真の上にのっけているポエム、あるいは写真と一緒に添えるポエム。ポエムじゃなくてもタイトルからキャプションまで写真と一緒に発表していく言葉に関して、基本ポエティックなものは写真と言葉の主従関係においては、言葉が主となりがちになってしまう。そうなった場合写真は挿絵としての役割になる。ポエムか否かという話でもなくて、ストレートにその写真を言葉で解説してしまうのも野暮な話だし、そもそも言葉で表現できるのであれば写真も必要はない。参考までに画像を添付します的なビジネスにおける資料のようなものになってしまう。

かといって、言葉にできないから写真で表現をするんですというのは写真から逃げていることになる。その1枚ないしは複数で見せることに関して、どういったヒントを与えてあげるのか、あるいは、真意をごまかすトラップをかけるのか、主である写真に対して言葉を慎重に選んで従わせなければ成立しない。そもそも真意なんてのもあってないようなものだ。真意を見抜かれようが曲解されようが、視覚情報とそれに付随した言葉から見た人が何を感じ取ったか、それがすべてだ。

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