見出し画像

ヌードを撮り始めたことの考察日記

1:はじめに
ヌードを撮ることについて考えてみた。非日常の演出をすることによって記録という枠の中から飛び出せないか。ある意味自分の中での挑戦なのかもしれない。自前の写真論を語りたいわけではなく、最近どんなものを撮っているのかという質問にヌードと答えることが増えてきた。すんなり受け入れてもらえることも少なく、どうして自分が撮り始めたのかを休みの日の朝、二日酔いで少し早く目が覚めてしまったので頭の中を整理するための日記(記録)として記す。(5番目あたり)

画像1


2:記録を撮り続けたこと
ライブの写真だったり、その延長でメンバーの記録、友達の記録と思い出ばかり撮り集めてきた。その集大成が2年ほど前に作った「小田急LINE」という写真集だった。TOKYO ART BOOK FAIRにも出展しながら、おじさん世代に響く写真で新鮮だったのを覚えている。自分の若い頃に重ねて懐かしむような感想をたくさんいただいた。しばらく撮り続けていた写真はいわゆる自分の身のわりで起きたことを記録するだけの私写真で、こんなものはアラーキーの時代でやり尽くされていて、今撮ったところでなんの面白みも作品性もない。額に入れた1枚として成立しない。他人の部屋に飾れない。これが、写真や美術をやる人たちからの評価だった。当時は自分の中でも言葉で説明する知識スキルもなく、ただ褒めて貰える人からの評価にしがみつくことしかできなかった。とはいえ、そもそもそういった写真が純粋に好きだったこともあって、何か言われて憤慨しつつも翌日には酒に寄った男の裸体を撮り始めていた。これも立派なヌードといってもいい。ヌード言うと昔の中世ヨーロッパの裸婦画をイメージする人も多い気もするが、ダビデ像をはじめとして男の屈強な裸体だって立派なヌードである。この当時は女性の裸を撮ったことがなく、今思えばそれも要因の一つだったのかもしれない。

画像2

3:写真と言葉の関係について
自分が撮る写真を言葉で説明できないといけないと思い始めたのはこのあたりからだった気がする。以前、アシスタントでパリの写真祭に行ったときのこと。どれだけ絵力が強くても作家本人あるいはキュレーターがその作品についてプレゼンできなければその1枚は売れなかった。言葉で説明できないからこその表現というのは単なる逃げであって、目を引く一枚の隣にあった別の作家の作品をついでに聞いておこうかくらいのテンションで見に来たお客さんもいた。こちらの作家は普通の景色を撮っていたものの、しっかりお客さんへのプレゼンができていて、またたく間に購入者がついた。作品が売れるとタイトルの下に赤い丸シールがつく。写真はいくらでも複製できてしまうので決められた枚数分しか刷れない。(フリーあるいはオープンエディションといっていくらでも刷れる代わりに価格が安いビジネスモデルもある。)自分の言葉で作品を説明できる人の作品にはたくさんの赤い丸シールが貼られていた。絵力もお客さんの目を引く上で大事な要素ではあるが、その先に芸術をビジネスとして売り込めるか否かでその道で生きていけるかどうかが決まる。写真と言葉の関係は難しい。写真と言葉にも主従関係があると思っていて、言葉が主になってしまうとそれはポエムで写真は挿絵になってしまう。言葉で説明しすぎることによって、写真を見てくれた人が感じ取る幅を狭めてしまう。写真が主であって言葉を従にするバランスはとても難しい。商業において使われるクリエイティブが結果だとすれば、芸術はその形に至るまでの過程が重要なのかもしれない。こんなことを目の当たりにして自分もある程度は知識をつけなければと感化されたのだった。

スキャン 7.tiff

4:結局写真はわからない
図書館に通い詰めてソンタグの写真論からベンヤミンの複製技術時代の芸術、椹木野衣のシミュレーショニズムあらゆる人文系の本を読み漁った。何を読んでも理解ができない。精神分析学、記号学、言語学あらゆる学問がベースとなって話が進んでいく中でこれは生半可にかじった程度では言葉にしてはいけない。何もしていない時間が不安になるほど文献を読み漁った。身につけたことを忘れることへの恐怖から常に知識をインプットし続けた。こればかりに囚われてしまい一時期は写真を撮れなくなった。撮れなくなったは言い訳で撮ることよりも読むことを優先して撮らなくなったのだ。10年撮り続けた友達の写真もこのときに止まってしまったような気もする。今でもたまにカメラを向けることもあるが、以前ほど純粋なものではない。半端に知識をつけてしまったのが原因か、友達にカメラを向けても常に邪念が入ってくる。どれだけ先人の言葉や本を読み漁ってみても写真のことはわからない。そもそも未だに前線で活躍するレジェンド級の作家ですら写真がわからないと言っているのに自分に理解できるわけがない。写真はとにかく記録である。つまり、僕が純粋に撮ってきたものは正しかった。そう思い込む他ないのである。そして、今思えばあのときに撮っておいてよかったと思えるのもその時々の記録なのかもしれない。誰でも撮れる写真でもあり、その当時の自分にしか撮れなかったもの。写真は撮ってしばらく寝かせておくといい。

画像6

5:ヌードを撮り始めたきっかけと関係性
写真が記録であるということから飛び出すためにはどうすればいいのか。これまでの歴史の中でも試そうとした人たちはごまんといて別に目新しいことではない。ただ、これまで自分が手を出したことがない領域に踏み込んでみたい。それがヌードを撮り始めたきっかけだったのかもしれない。学生時代交際していた彼女からグラビアの業界に片足を突っ込むとなったときに、女性を搾取するような写真は受け入れられないと言われたことをきっかけに女性を撮る上でどうすればいいのか分からなくなった。グラビアにもジャンルは様々とあるが、肌着や水着など肌の露出が多いもの想起していたのだと思う。ヌードに挑戦してみたいと思ったときに思い浮かんだのが性的搾取だった。男性である自分が女性の裸を撮るという構図上、どうもがいても搾取する形にはなってしまわないだろうか。そもそも写真を撮る写る上で性別の違いとは。男性が女性がといったことは関係なく、自分以外の人と1枚の写真におさめていく上で人と人との関係性がまず大前提良好であること。ここに性別はあまり関係ないんじゃないか。社会的性、生物学的性、言語学的性、性別といってもいろんなカテゴリが存在する。そんなことは人の写真を撮る、写真に写る上であまり関係のないことなのかもしれない。それでも、裸という括りで見ると「ポルノ」か「アート」かといった論争が巻き起こるわけだが、少なくとも僕が撮りたい写真はポルノではない。では、記録からアートをやりたいのかというとこれもなんだか腑に落ちない。

画像4

今の自分の体を記録として残しておく。そういう理由で写真に写る人もいると思う。自分の体を使って何かを表現したい。身体のパーツが気に入っていて肌にハリがあるうちに撮っておいてほしい。逆も然りで自信がないからこそ撮影してみて自己肯定感を感じた。いずれも撮影中に聞いた感想だった。顔と違って個人を特定するほどの個人差はないまでも、部分ごとに身体を観察していくとそこに個性が現れる。観察と書くとそれもそれで変な感じはするが、撮るということは見ることであって観察と同義である。そして、撮る人も写真に写る人から見られる関係になる。つまり、撮る撮られると記述してしまうと、一方が受け身になってしまうが写真はお互いの間にカメラを挟んでいるだけで対等なはずなのだ。写真におさめることによって目の前の風景を簡単に持ち運べるようになる。写真は常に暴力性をはらんでおり、使い方を間違えるだけでトラブルの元になる。結局、ヌードを撮ったところで写真におさめたらそれは記録なのかもしれない。

画像5

6:おわりに
これまで自分の周りで起こっていることを俯瞰した目で記録してきた。それを特定の空間で自分対他人の関係性を演出したら記録の域は出るのだろうか。記録する上で演出を挟むことによって何か変化はあるのか。結局は自分の興味のために他人を巻き込んでいる。ただ、裸を撮りたいわけでも、搾取したいわけでもない。カメラの前に立つことを生業としている人からしたら報酬の有無でそもそも搾取していると言われるかもしれない。長々と書いてきたこのことに共感を持ってくれた人のみ関係性が構築できるのではないかと思っている。ここに金銭が発生してしまった時点でそれは撮る撮られる関係になってしまう。ある意味対価を支払った上では平等かもしれないが、関係性という部分ではフラットになれない。雇用主か顧客。自分の周りで偶然起こっていることを記録する。この行動から人対人の関係性を限られた空間の中でどういった偶然を起こせるか。演出された時間の中で起きたことに記録性はあるのだろうか。

この記事が参加している募集

コンテンツ会議

たくさん写真を見てほしいです。