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タイトルの付け方

文章は書く人の性格がそのまま出てしまう。そして人の第一印象は一瞬で決まるというが、短い題名だけで長い文章の半分以上を見定められてしまうと思うと余計にタイトルには気を使う。「無題」のような読者に身を委ねてしまうような無責任なタイトル付けだけはしたくない。

分かりやすいタイトルを付けたほうがnoteの記事も読まれやすくなるんだと思う。普段自分で書いている雑記を表現だとは思わない。タイトルは日付でもいいんだけど、ちょっとこだわりたいときもあったりする。何者でもない人の日記ほどどうでもいいものはない。そして、なんとなく直球のタイトルをつけるのも気恥ずかしい。普段書き上げているものは日記に等しく、僕の頭の中を整理するのにちょうどいい。誰かに何かを訴えかえかけるつもりもないので、情報の正確性というのも保証はしない。無責任なタイトル付けはしたくないとは言いつつ、この中身に関してはある意味無責任な文章ではある。SNSには中毒性があって、気づけば常に遊覧してしまっている。そこから何を得ようとしているわけではなくて、タイムラインを追っていくのが習慣のようになってしまっていて、無意識的にいろんな情報を受け取っているわけだ。誰かの投稿を読むというよりはただ画面を眺めているだけ。視覚情報は暴力的に自分の頭の中にどんどん流れ込んできてしまう。その頭の中を整理していくには自分の思考を言葉で書き連ねていくのが個人的にはベストで、言ってしまえば一種のヒーリングのような感覚でつらつら書いている。なるべく文章を組み立てないように。なるべく、頭の中の記憶に忠実に。うる覚えなことはそのままで。こんなだからネットの情報は信用するなとか言われてしまうんだろうけど、そもそもネットに限らず人伝いに聞いたことだって、その人の信用次第でその言葉の信憑性は変わってくるわけで、知り得た情報との距離感の違いしかない。とはいえ、その距離感が大事なわけで、知り得た情報の絶対評価というのはそのものを信じるほかない。あとは、自分がすでに持っている情報との比較か、その情報の発信どころのバックグラウンドに依存する。このバックグラウンドというのが非常にやっかいで、僕自身もそこは気にしてしまうところがあって、最近、写真だけやっている人の写真ってつまらないんじゃないかと思っている。そんな自分も、写真を見ただけで「写真だけやってるやつの作品は面白くない」なんて時点でその作品の絶対評価ができていない証拠だ。

自分の無意識下を写真におさめることを目標の一つにしていたわけだけど、成功したところでその写真にはなんの意味もない。写真に意味をもたせるということすらおこがましいんだけど、他人のためでも自分のためでもない写真というのは、写真に向き合っているだけでは完成しない。

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